.日本におけるグレゴリオ暦導入
日本では、
明治5年(ほぼ
西暦1872年に当たる)に、従来の
太陰太陽暦を廃して翌年から太陽暦を採用することが布告された。この「
太陰暦ヲ廃シ太陽暦ヲ頒行ス」(明治5年
太政官布告第337号、
改暦ノ布告)では、「來ル十二月三日ヲ以テ明治六年一月一日ト被定候事」として、グレゴリオ暦
1873年1月1日に当たる明治5年12月3日を明治6年1月1日とすることなどを定めた。そのため、明治5年
12月2日まで使用されていた
天保暦は
旧暦となった(
明治改暦)。
この布告は年も押し迫った明治5年
11月9日 (旧暦)(新暦の1872年12月9日に当たる)に公布されたため、社会的な混乱を来した。暦の販売権をもつ弘暦者(明治5年には
頒暦商社が結成された)は、例年10月1日に翌年の暦の販売を始めることとしており、この年もすでに翌年の暦が発売されていた。急な改暦により従来の暦は返本され、また急遽新しい暦を作ることになり、弘暦者は甚大な損害を蒙ることになった。一方、
福澤諭吉は、太陽暦改暦の決定を聞くと直ちに『
改暦弁』を著して改暦の正当性を論じた。太陽暦施行と同時の
1873年(明治6年)1月1日付けで
慶應義塾蔵版で刊行されたこの書は大いに売れて、内務官僚の
松田道之に宛てた福澤の書簡(
1879年(明治12年)3月4日付)には、この出来事を回想して「忽ち10万部が売れた」と記している
[20][21]。
これほど急な新暦導入が行われた理由として、当時
参議であった
大隈重信の回顧録『大隈伯昔日譚』によれば、明治政府の財政状況が逼迫していたことが挙げられる。すなわち、旧暦のままでは明治6年は
閏月があるため、13か月となる。すると、月給制に移行したばかりの
官吏への報酬を、1年間に13回支給しなければならない。これに対して、新暦を導入してしまえば閏月はなくなり、12か月分の支給ですむ
[22]。また、明治5年12月は2日しかないことを理由に支給を免れ、結局11か月分しか給料を支給せずに済ますことができる。さらに、当時は1、6のつく日を休業とする習わしがあり、これに
節句などの休業を加えると年間の約4割は休業日となる計算であった。新暦導入を機に週休制にあらためることで、休業日を年間50日余に減らすことができる
[23]。
しかし、施行まで1か月に満たない期間の中で慌てて布告されたためか、この布告には置閏法に不備があった。それはグレゴリオ暦の肝腎な要素である「400年に3回、西暦年数が100で割り切れるが400で割り切れない年を、閏年としない」旨の規定が欠落していたことである。このままでは導入された「新しい太陽暦」はグレゴリオ暦ではなく、さりとて日付が12日ずれているためユリウス暦そのものでもなく、「ユリウス暦と同じ置閏法を採用した日本独自の暦」となってしまう。また、同布告の前文にある文面もおかしく、グレゴリオ暦で実際に1日の誤差が蓄積されるのに要する年数は約3200年であるにもかかわらず、「七千年ノ後僅ニ一日ノ差ヲ生スルニ過キス」としていた。これは、起草者が参考にした天文書『遠西観象図説』の誤りと考えられている。
そこで、西暦
1898年(皇紀2558年・明治31年)
5月11日に、改めて勅令「閏年ニ關スル件」(明治31年
勅令第90号)を出して、グレゴリオ暦に合わせた置閏法に改めた。
閏年ニ關スル件(明治31年勅令第90号)
神武天皇即位紀元年數ノ四ヲ以テ整除シ得ヘキ年ヲ閏年トス
但シ紀元年數ヨリ六百六十ヲ減シテ百ヲ以テ整除シ得ヘキモノノ中更ニ四ヲ以テ商ヲ整除シ得サル年ハ平年トス
この勅令では、
神武天皇即位紀元(皇紀)年数を用いて閏年か平年かを判別しているが、
西暦年数を用いたグレゴリオ暦と同じ値になる(皇紀年数から660を減じるとする点で、西暦とグレゴリオ暦そのものを参照していると解釈できる)。この置閏法の誤りを修正する勅令が公布された時には、日本で太陽暦を導入してから初めての「紀元年數ヨリ六百六十ヲ減シテ百ヲ以テ整除シ得ヘキモノノ中更ニ四ヲ以テ商ヲ整除シ得サル年」である皇紀2560年すなわち西暦1900年(明治33年)は、1年半後に迫っていた。
グレゴリオ暦導入の経緯[編集]
国立天文台暦計算室の暦Wikiの「明治以降の編暦」の記事も参照のこと。

明治5年
10月1日(1872年11月1日):例年どおり、弘暦者(
頒暦商社)により翌年の暦(旧暦)が全国で発売される。

11月初旬(12月初旬):太政官権大外史
塚本明毅により建議
[24]。
11月9日(12月9日):「
太陰暦ヲ廃シ太陽暦ヲ頒行ス」(明治5年
太政官布告第337号、
改暦ノ布告)を公布。突如として明治5年は12月2日で終了すると定められる。
11月23日(12月23日):太政官布告第359号で「来ル十二月朔日二日ノ両日今十一月卅日卅一日ト被定候」(12月1日および2日を11月30日および31日と定めた)とする。翌
24日付け太政官達書で取り消す。
11月27日(12月27日):太政官布達第374号により、「当十二月ノ分ハ朔日二日別段月給ハ不賜」(この12月の分は、1日・2日の2日あるが、別段月給を支給しない。)と、12月分の月給不支給が各省に通告される
[25]。
12月2日:
天保暦を廃止。

1873年1月1日に当たる
明治5年12月3日(旧暦)を明治6年1月1日(新暦)とする太陽暦への改暦(
明治改暦)。

1873年(明治6年)
1月12日:頒暦商社の損失補填のため、向こう3年間の暦販売権を認める。

1875年(明治8年)
1月12日:頒暦商社の暦販売権を明治15年まで延長する。

1883年(明治16年):本暦と略本暦が
伊勢神宮から頒布される。

1898年(明治31年)
5月11日:明治5年の改暦における
置閏法の問題(明治33年(西暦1900年)がグレゴリオ暦と異なり閏年となってしまう)を修正した勅令「閏年ニ關スル件」(明治31年勅令第90号)が公布される。

1910年(明治43年):官暦の旧暦併記が消滅。

2010年(平成22年):(非公式)この年をもって海上保安庁
海洋情報部による非公式な新暦旧暦の対照表の公表が終了した(海洋情報部による暦関連の業務は、
天測暦他の必要性によるもので、旧海軍
水路部の明治以来のものである)。

2033年:
旧暦2033年問題:2033年の秋から翌2034夏にかけて旧暦の8月〜翌3月および閏月の配置が、
天保暦のルールでは決定できない問題。
※ただし国立天文台は、毎年2月に「暦要項」を
官報に
告示し、翌年の「二十四節気および雑節」、「朔弦望」(朔=朔、望=15日など)を計算・提示している。すなわち、毎年、
旧暦の「30日の大月、29日の小月」の設定、置閏の基準である「
中気」の提示は「公的」に行われていることになる
[26]。