クリスティアン・ティーレマン
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2.経歴
2.1.出生からデビューまで
音楽好きの両親のもとベルリンで生まれたティーレマンは、幼時より両親に連れられて室内楽やベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏会に通い[2]、自らも5歳でピアノ、7歳でヴィオラを始め、後にピアノをベルリン音楽大学学長のヘルムート・ロロフに師事、カラヤン財団のオーケストラ・アカデミーに入った後はベルリン・フィルの当時の首席ヴィオラ奏者ジュスト・カッポーネからヴィオラとヴァイオリンを学び[5][6]、これらの演奏で数多くの賞を受賞している[7]。また、並行して、かつてブルーノ・ワルターが学んだことでも知られるベルリンのシュテルン音楽院にて指揮作曲などの個人レッスンも受けていた[5]

そして、ベルリン・ドイツ・オペラの練習指揮者であったハンス・ヒルスドルフからピアノスコアの弾き方を学んだ後、当時、同歌劇場の事実上の常任指揮者であったハインリヒ・ホルライザーに認められ、1978年、19歳でベルリン・ドイツ・オペラのコレペティートアに採用された[5]。ホルライザーのアシスタントとなり、本格的に指揮者としての道を歩み始めたティーレマンであったが、そもそもティーレマンが指揮者となることを決意したのは、前述のような音楽学生時代を過ごす中で、ベルリン・ドイツ・オペラにて上演されたホルライザー指揮、ヴィーラント・ワーグナー演出による、リヒャルト・ワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』を見たことであったという[2]

コレペティートアとして働くようになってからは、ヘルベルト・フォン・カラヤンとの交流も深まり、ベルリン・フィルの本拠地であるベルリン・フィルハーモニーとベルリン・ドイツ・オペラを行き来したり、ザルツブルク復活祭音楽祭への参加[8]をはじめとして、彼らの演奏旅行に同行したりしながら、オペラとオーケストラ両面の研鑽を積むこととなる[9]。1980年には、カラヤンが弾き振りするブランデンブルク協奏曲のチェンバリストとして“ベルリン・フィルデビュー”も飾っている[6]

また、当時ベルリン・ドイツ・オペラに客演していたダニエル・バレンボイムのアシスタントも務め、その縁でパリをはじめとする各地での演奏会やバイロイト音楽祭(1981年、ジャン=ピエール・ポネル新演出によるワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』[10])においても筆頭助手として活躍した[9][7]。バイロイト音楽祭への参加をきっかけとして、ホルスト・シュタインからアドバイスを受ける機会も得ている[11]が、後にティーレマンは、ホルライザーとともに自分を一番可愛がってくれたのはシュタインである[12]と語り、シュタインをカラヤンと同列の指揮者として挙げている[13]

その後、1982年よりゲルゼンキルヒェン音楽歌劇場の指揮者兼コレペティートア、カールスルーエ・バーデン州立劇場ハノーファーのニーダーザクセン州立劇場にて経験を積んだ。そして、1985年デュッセルドルフのデュッセルドルフ・ライン歌劇場の首席指揮者としてキャリアをスタート、1988年にはニュルンベルク州立劇場の音楽総監督に就任した[7]。これは当時ドイツ国内では最年少の音楽総監督であった[9]

この間、1983年にはイタリアの名門フェニーチェ劇場において、ワーグナー没後100年を記念した『パルジファル』を指揮し[14]、好評を得た。1987年には、ウィーン国立歌劇場モーツァルトの『コジ・ファン・トゥッテ』を指揮してデビューし、続けてモーツァルトの『フィガロの結婚』やヴェルディの『椿姫』などを10回指揮したものの、この時は人気を得るには至らず、以降しばらく遠ざかることになるという苦い経験も有している[15](ウィーン国立歌劇場へは後に再デビューを果たす。後述)。

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出典:Wikipedia
2019/07/01 14:00
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