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カントリー・ミュージック
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2.歴史
2.4.1950 - 1960年代、第3世代
1950年代中盤に入ると、R&Bジャズブルースゴスペルといった、現在の軽音楽の母体となる黒人音楽との融合が始まり、“ロックンロールの王様”エルヴィス・プレスリーに代表される、ロカビリーロックとヒルビリーの融合)スタイルのミュージシャンを多く生み出し、さらにスウィングブギといったジャズのリズムを取り入れることにも成功、カントリー自体が様々な方向へと多様化・細分化し始める。 また、このころを境に、民謡やヒルビリー(丘陵地帯の田舎者)音楽という概念は薄れ始め、女性歌手を中心にソフトなラブソングバラードなどで女性的、または都会的なイメージを強調する路線や、男性は馬ではなくピックアップトラックトラクターを運転する現代的なカウボーイやレッドネック(南部の粗野な田舎者)のイメージ、さらにロカビリーの影響で不良青年やヤクザ者を強調する路線も追加される。 そして1960年代にはフォーク・リヴァイヴァル・ムーブメントの影響もあり、カントリーの人気がさらに盛り上がる。この頃から“聖地”ナッシュビルとは別に、カリフォルニア州ベーカーズフィールドテキサス州などから新しいサウンドが生まれ新たな流れを作り始めた。バック・オーウェンス・アンド・ヒズ・バッカルーズはその代表的な存在であり、カントリーとは無縁なクラシックの“聖地”カーネギー・ホールでコンサートを行い、大成功を収めた。

1950年代初頭までに、ウエスタン・スウィング、カントリー・ブギ、ホンキートンクの融合が多くのカントリー・バンドにより演奏されるようになった。1950年代後期、南西部やメキシコ北部のカウボーイ・バラードやテハノ・ミュージックの影響を受けたウエスタン・ミュージックは人気が最高潮となった。特に1959年9月にマーティ・ロビンズにより収録された『El Paso 』が知られている。

カントリー・ミュージック・シーンは楽器編成や起源の類似に関わらず、フォーク・リバイバルとフォークロックは距離を保っていた。例えばバーズが『オープリー』に出演した際は観客からヤジが飛んだ。大きな問題は政治的なことであった。バール・アイヴスジョン・デンバー、カナダのミュージシャンであるゴードン・ライトフットはフォーク・リバイバルが廃れた後、カントリー・ミュージックにクロスオーバーした。

1950年代中期、カントリー・ミュージックの新たなスタイルが人気となり、のちにロカビリーと呼ばれるようになった[41]

ロカビリー[編集]


1950年代、カントリー・ファンの間でロカビリーは最も人気があり、1956年は「ロカビリーの年」とも呼ばれた。ロカビリーはロックンロールとヒルビリー・ミュージックの合成語である[42]。この頃、当時音楽業界で大きな役割を担っていたエルヴィス・プレスリーがカントリー・ミュージック界に進出した。この年の『ビルボード』年間チャートの第2位はプレスリーの『ハートブレイク・ホテル』、第3位はジョニー・キャッシュの『I Walk the Line 』、第4位はカール・パーキンスの『ブルー・スエード・シューズ』であった[43]

1958年、キャッシュの『Guess Things Happen That Way/Come In, Stranger 』が第3位、プレスリーの『Don't/I Beg of You 』が第5位となった[44]。プレスリーはリズム・アンド・ブルースの影響を受けており、彼のスタイルについて彼は「私が物心つく前から有色人種の方々が演奏してきたものを今私がやっているだけ」と語った。しかし彼はさらに「私のスタイルはカントリーをテンポよくしただけ」とも語っている[39]。数年の間で多くのロカビリー・ミュージシャンが流行りのスタイルに回帰し、それ以外の者が独自路線を確立した。

1955年から1960年、ミズーリ州スプリングフィールドからテレビ局ABCおよびラジオの『Ozark Jubilee 』が全米放送され、カントリー・ミュージックの番組が増えた。1956年、ウエブ・ピアスは「昔々、ニューヨークなどではカントリーは売れなかった。現在テレビ局は私たちをどこにでも連れて行き、カントリーのレコードは大都市を含めてどこでも売られるようになった」と語った[45]

1950年代後期、ラボック・サウンドが登場したが、終盤、その反動でレイ・プライス、マーティ・ロビンズ、ジョニー・ホートンなどの伝統的なアーティストが1950年代中期に影響を受けたロック界からシフトし始めた。

ナッシュビル・サウンドおよびカントリーポリタン・サウンド[編集]


1950年代中期から1960年代初頭をピークに、ナッシュビル・サウンドがテネシー州ナッシュビルを数百万ドルのカントリー・ミュージック産業の中心地にした。チェット・アトキンス、ポール・コウエン、オウエン・ブラッドリー、ボブ・ファーガソン、のちにビリー・シェリルなどのプロデューサーの指示のもと、様々な趣向の観客にカントリー・ミュージックを届け、商業的に落ち着いてきたカントリー・ミュージックの再建に加担した[46]

1950年代からこのサブジャンルは、派手で洗練されたヴォーカル、弦楽器やコーラスのいるバンドでポップのスタイルを汲むようになった。楽器演奏の「リック」のソロはあまり主張しないようになった。このジャンルの著名なアーティストにはジム・リーヴズ、スキータ・デイヴィス、ザ・ブラウンズ[47]パッツィー・クラインエディ・アーノルドなどがいる。スタジオ・ミュージシャンのフロイド・クレイマーの「スリップ・ノート」のピアノ奏法はこのスタイルの重要な要素であった。

ナッシュビルのポップ・ソングの構成はより認知され、カントリーポリタンと呼ばれる形に変形した。カントリーポリタンは市場の主流を直に狙い、1960年代後期から1970年代初頭まで売上を伸ばした(ただしこの時代、ブリティッシュ・インヴェイジョンによりアメリカのポピュラー音楽は打撃を受けた)。主なアーティストにはタミー・ワイネットリン・アンダーソン、チャーリー・リッチや元「ハード・カントリー」のレイ・プライス、マーティ・ロビンズなどがいる。

ナッシュビル・サウンドの台頭にも関わらず、ロレッタ・リン、マール・ハガード、バック・オウエンズ、ポーター・ワゴナー、ソニー・ジェイムズなどトラディショナル・カントリーのアーティストも登場し、活躍した。

カントリー・ソウル[編集]


1962年、レイ・チャールズがカントリー・アンド・ウエスタン・ミュージックに転向し、シングル『I Can't Stop Loving You 』、アルバム『Modern Sounds in Country and Western Music 』.[48]を出版し、『ビルボード』誌のポップ・チャートで第1位および年間チャートで第3位を獲得してポップ業界を騒がせた[49]

ベイカーズフィールド・サウンド[編集]


カリフォルニア州ロサンゼルスから北北西112マイル (180 km)のベイカーズフィールドを発祥とする、ウエスタン・スウィングの流れを汲むハードコア・ホンキートンクの新たなジャンルが広がってきた。西海岸居住歴のあるボブ・ウィルズ、レフティ・フリッツェルの影響により、1966年までにベイカーズフィールド・サウンドと呼ばれるようになった。この時代のカントリーの他のサブジャンルよりもフェンダー・テレキャスターなどのエレクトリックな楽器やアンプを使用し、シャープでハードで力強く、シンプルで最先端の音であった。このスタイルのミュージシャンにはバック・オウエンズ、マール・ハガード、トミー・コリンズ、ゲイリー・アラン、ウィン・スチュワートなどがいたが、それぞれが違ったスタイルであった[50][51]

カントリー・ロック[編集]


1960年代後期、カントリーが様々なジャンルに分化した結果、ユニークなブレンドが生まれた。ブリティッシュ・インヴェイジョンの後、古い体系のロックに回帰するようになった。同時にナッシュビルで生産されるカントリーへの熱狂が減少してきた。このクロスオーバーしたジャンルがカントリーロックとして知られるようになった。

1960年代および1970年代に流行したこの新しいスタイルの初期の導入者にはカントリーへ回帰した第一人者のボブ・ディランなどがおり、1967年にアルバム『ジョン・ウェズリー・ハーディング』を出版し[52]、次の『ナッシュヴィル・スカイライン』はよりカントリー色が濃い。続いてジーン・クラーク、クラークが以前所属していたバーズ(グラム・パーソンズ)の『Sweetheart of the Rodeo 』を含む)、フライング・ブリトー・ブラザーズ(グラム・パーソンズが所属)、C.C.R.、ニュー・ライダーズ・オブ・ザ・パープル・セイジ、ニッティ・グリッティ・ダート・バンド、ギタリストのクラレンス・ホワイトマイク・ネスミスグレイトフル・デッドニール・ヤング、コマンダー・コディ、オールマン・ブラザーズ・バンド、マーシャル・タッカー・バンド、ポコバッファロー・スプリングフィールドイーグルスなどがいる。ローリング・ストーンズも『カントリー・ホンク』や『ホンキー・トンク・ウィメン』、『Dead Flowers 』でカントリー・ロックを取り入れた。

オールミュージックに「カントリー・ロックの父」と称された[53]グラム・パーソンズの1970年代初頭の作品はその新鮮さと伝統的カントリー・ミュージックへの敬意で称賛された[54]。1973年に突然亡くなった彼の遺志は友人でデュエット・パートナーでもあったエミルー・ハリスに引き継がれた。1975年にハリスはカントリー、ロックンロール、フォーク、ブルース、ポップを融合してソロ・デビューした。

カントリーとロックという対局する2つのジャンルが融合し、その結果サザン・ロック、ハートランド・ロックが生まれ、その後オルタナティブ・カントリーが生まれた。

その後数十年の間にジュース・ニュートン、アラバマ、ハンク・ウイリアムズ・ジュニア(およびその子ハンク・ウイリアムズ・サード)、ゲイリー・アラン、シャナイア・トゥエインブルックス&ダンフェイス・ヒルガース・ブルックスドワイト・ヨアカム、スティーヴ・アール、ドリー・パートン、ロザンヌ・キャッシュ、リンダ・ロンシュタットなどがカントリー・ロックの影響を受けた作品を発表した。ビートルズのリンゴ・スターもカントリー好きを公言し、バック・オーデエンスの「アクト・ナチュラリー」をレコーディングし、ビートルズ解散後にナッシュビルに渡米し、「カントリー・アルバム」を発表した。しかし、取り上げたのはカントリーのスタンダードではなくナッシュビルの無名の作品を取り上げたものだった。

ウエスタン・ミュージックとカウボーイ・バラードの下降[編集]


1960年代後期までにウエスタン・ミュージック、特にカウボーイ・バラードの人気は下降していった。ロックンロールの売上が優勢で、ハリウッドのレコーディング・スタジオはウエスタンのアーティストを手掛けなくなった。カントリー・ミュージック関連会社は「カウボーイ」アーティストや近年のベイカーズフィールド・サウンドで優勢なナッシュビル・サウンド、カントリー・ロック、ロカビリーの本拠地であるナッシュビルへ移行した。ベイカーズフィールド・サウンドはバック・オウエンズ、マール・ハガードの他数少ないバンドだけに限られた。このプロセスにおいて、カントリー・アンド・ウエスタンのジャンルはサウスウエスタン、ランチェラ、テハノの影響をなくしていった。しかし1970年代、テキサス州やオクラホマ州からカウボーイ・バラードやホンキートンクは再解釈されて復活し、ウィリー・ネルソンやウェイロン・ジェニングスらの「アウトロウ・カントリー」へとつながっていった。

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出典:Wikipedia
2019/09/20 10:01
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