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カラハン朝
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2.歴史
2.3.東西分裂後
西カラハン朝はサマルカンドを首都に定め、11世紀にアッバース朝カリフの権威を承認した[30]。西カラハン朝の支配者は当初ウズガンド(ウズゲン)に居住していたが、権力を強化した後にサマルカンドに宮廷を移し、ウズガンドはフェルガナの統治者の本拠地とされた[31]。西カラハン朝は全マー・ワラー・アンナフルの支配者を自称していたが、フェルガナはサマルカンドから半ば独立した状態にあった[31]
東カラハン朝は草原地帯のテュルク・ムスリムの軍事力によってフェルガナ盆地のオアシス都市を支配し、その経済力は天山山脈の南北に及んでいた[4]。ユースフの死後、東カラハン朝はベラサグン、カシュガル、ホータンを支配する大ハン、タラスを支配する小ハンの領土に分裂する[32]1055年頃、タラスを支配するムハンマド1世・ボグラ・ハンは大ハンが領有するカシュガルを獲得した。ムハンマド1世はカシュガルを文化都市に発展させ、東カラハン朝からは教訓書『クタドゥグ・ビリグ』やトルコ語の辞典『トルコ語集成』などの作品が生み出された。11世紀末に東カラハン朝はアフマド・ボグラ・ハンによって再統一され、彼の治世に『クタドゥグ・ビリグ』が著される[33]
11世紀初頭にオグズの一派がイランで興したセルジューク朝1040年にダンダーンカーンの戦いでガズナ朝を破り、勢力を広げた。当初カラハン朝はセルジューク朝の攻撃に耐え、セルジューク朝の支配下に置かれていたホラーサーン地方の都市を占領する。1072年にマー・ワラー・アンナフルはセルジューク朝の攻撃を受け、西カラハン朝のナスル1世はセルジューク朝に臣従を誓った[32]。アフマド1世の治世の1089年、政府と対立するマー・ワラー・アンナフルのウラマー(イスラームの神学者)の要請に応じて西カラハン朝を攻撃したセルジューク軍はサマルカンドを占領し、西カラハン朝はセルジューク朝の支配下に置かれた[34]。アフマド1世はセルジューク朝から支配権を回復したものの、1095年にウラマーによって異端と宣告され、処刑された[34]。およそ半世紀の間、西カラハン朝はセルジューク朝に臣従し、大部分の君主はセルジューク朝によって選ばれた[34]
東カラハン朝はセルジューク朝がタラス、セミレチエに侵攻した後にセルジューク朝への臣従を表明したが、臣従の期間はごく短かった。1102年に東カラハン朝の王統に連なる西カラハン朝の君主ジブラーイールはセルジューク朝が支配するホラーサーン地方に侵入するが、この地を治める王子サンジャルによってテルメド近郊の戦いで殺害される。1130年にハサン、1132年にマフムード2世を王位に就けた[35]
12世紀前半の中国北部では女真族の建国した契丹族の国家に取って代わり、遼の王族耶律大石に率いられた一団は中国から中央アジアに移住してカラ・キタイ(西遼)を建国した。東カラハン朝のアフマド・ハンは東トルキスタンの横断を試みたカラ・キタイ軍を破り、耶律大石は進路を天山山脈北方に変更する[36]。ベラサグンを支配するカラハン朝の王族が耶律大石に援軍を求めた後、ハンの敵を破った耶律大石はベラサグンを奪い、この地でグル・ハンを称した[36]1137年に西カラハン朝の君主マフムード2世はホジェンド付近の戦闘でカラ・キタイの軍に敗れ、マフムードは叔父であるセルジューク朝のスルターン・サンジャルに助けを求めたが、1141年カトワーンの戦いでセルジューク朝・カラハン朝の連合軍はカラ・キタイに敗北する[37]。東カラハン朝とカラ・キタイの戦闘に関する記録は残されていないが、アフマドの子イブラーヒーム2世は殉教者(Shah?d)の名前で呼ばれていることからカラ・キタイとの戦闘で落命したと考えられている。臣従を認めさせて貢納を徴収するカラ・キタイの間接統治策の下、東カラハン朝はカラ・キタイの王位を簒奪したナイマン部族クチュルクに滅ぼされ、西カラハン朝は1212年ホラズム・シャー朝に滅ぼされるまで存続した[38]
[4]前ページ
(2.2.宗教戦争とサーマーン朝への攻撃)
[6]次ページ
(2.4.滅亡)

4. 梅村「中央アジアのトルコ化」『中央アジア史』、81頁
30. 梅村「中央アジアのトルコ化」『中央アジア史』、80-81頁
31. バルトリド『中央アジア史概説』、56頁
32. グルセ『アジア遊牧民族史』上、233頁
33. グルセ『アジア遊牧民族史』上、233-234頁
34. Davidovich, E. A. (1998), “Chapter 6 The Karakhanids”, in Asimov, M.S.; Bosworth, C.E., History of Civilisations of Central Asia, 4 part I, UNESCO Publishing, pp. 119?144,  
35. グルセ『アジア遊牧民族史』上、251-252頁
36. バルトリド『中央アジア史概説』、62頁
37. 井谷「トルコ民族の活動と西アジアのモンゴル支配時代」『西アジア史 2 イラン・トルコ』、112-113頁
38. 濱田「中央ユーラシアの「イスラーム化」と「テュルク化」」『中央ユーラシア史』、172頁

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出典:Wikipedia
2017/12/02 05:30
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