カール・マルクス
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2.生涯
2.5.ベルリン大学
1836年10月にベルリン大学に転校した[61][62][63]。ベルリン大学は厳格をもって知られており、ボン大学で遊び歩くマルクスにもっとしっかり法学を勉強してほしいと願う父の希望での転校だった[62][64][65]。しかし、マルクス自身は、イェニーと疎遠になると考えて、この転校に乗り気でなかったという[70][71][65]

同大学で受講した講義は、法学がほとんどで、詩に関する講義はとっていない[72][73]。だが、詩や美術史への関心は持ち続け、それにローマ法への関心が加わって、哲学に最も強い関心を持つようになった[62]1837年1838年の冬に病気をしたが、その時に療養地シュトラローで、ヘーゲル哲学[77]の最初の影響を受けた[73][74]

以降ヘーゲル中央派に分類されつつもヘーゲル左派寄りのエドゥアルト・ガンスの授業を熱心に聴くようになった[75][76]。また、ブルーノ・バウアーやカール・フリードリヒ・ケッペン、ルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハアーノルト・ルーゲ、アドルフ・フリードリヒ・ルーテンベルクらヘーゲル左派哲学者の酒場の集まり「ドクトル・クラブ(Doktorclub)」に頻繁に参加するようになり、その影響で一層ヘーゲル左派の思想に近づいた[77][78][79][80]。とりわけバウアーとケッペンから強い影響を受けた[86][82][83]。ちょうどこの時期は「ドクトル・クラブ」がキリスト教批判・無神論に傾き始めた時期だったが、マルクスはその中でも最左翼であったらしい[84][85]

ベルリン大学時代にも放埓な生活を送り、多額の借金を抱えることとなった。これについて、父ハインリヒは、手紙の中で「裕福な家庭の子弟でも年500ターレル以下でやっているというのに、我が息子殿ときたら700ターレルも使い、おまけに借金までつくりおって」と不満の小言を述べている[86][87][88]。また、ハインリヒは、自分が病弱だったこともあり、息子には早く法学学位を取得して法律職で金を稼げるようになってほしかったのだが、哲学などという非実務的な分野にかぶれて法学を疎かにしていることが心配でならなかった[94]

1838年5月10日に父ハインリヒが病死した。父の死によって、法学で身を立てる意思はますます薄くなり、大学に残って哲学研究に没頭したいという気持ちが強まった[90][91]。博士号を得て哲学者になることを望むようになり、古代ギリシャの哲学者エピクロスデモクリトスの論文の執筆を開始した[84][78][92]。だが、母ヘンリエッテは、一人で7人の子供を養う身の上になってしまったため、長兄マルクスには早く卒業して働いてほしがっていた。しかし、マルクスは、新たな仕送りを要求するばかりだったので、母や姉ゾフィーと金銭をめぐって争うようになり、家族仲は険悪になっていった[91]

1840年キリスト教正統主義思想の強い影響を受けるロマン主義フリードリヒ・ヴィルヘルム4世がプロイセン王に即位し、保守的なヨハン・アルブレヒト・フォン・アイヒホルンが文部大臣に任命されたことで言論統制が強化された[93][78][94][100]。ベルリン大学にも1841年に反ヘーゲル派のフリードリヒ・シェリング教授が「不健全な空気を一掃せよ」という国王直々の命を受けて赴任してきた[93]。ベルリン大学で学士号修士号を取得後、博士号を取得するべく博士論文の執筆を始める。

そのようなこともあって、マルクスは、ベルリン大学に論文を提出することを避け、1841年4月6日に審査が迅速で知られるイェーナ大学に『デモクリトスの自然哲学とエピクロスの自然哲学の差異(Differenz der Demokritischen und Epikureischen Naturphilosophie)』と題した論文を提出し、9日後の4月15日に同大学から哲学博士号を授与された[101]。この論文は文体と構造においてヘーゲル哲学に大きく影響されている一方、エピクロスの「アトムの偏差」論に「自己意識」の立場を認めるヘーゲル左派の思想を踏襲している[96][103][104][107]

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出典:Wikipedia
2019/10/16 12:30
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