オーストリア
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3.歴史
3.6.神聖ローマ帝国の解体とウィーン体制
フランス革命が起こるとオーストリアはフランスと戦争になったが、幾多の会戦でナポレオンに敗退し、形骸化していた神聖ローマ帝国は1806年に消滅した。この2年前の[21] 1804年オーストリア帝国が宣言されている。1814年、オーストリアは他の諸国とともにフランスへ侵攻してナポレオン戦争を終わらせた。1815年ウィーン会議が開催され、オーストリアはヨーロッパ大陸における四つの列強国の一つと認められた(ウィーン体制)。同年、オーストリアを盟主とするドイツ連邦がつくられる。1818年のアーヘン会議ザーロモン・マイアー・フォン・ロートシルトがウィーン財界に列した。1822年にはハプスブルク家から彼を含むロスチャイルド5兄弟全員に男爵位が送られた。彼らにより現在のオーストリア北部鉄道が建設された。政治と連携したロスチャイルドをふくむ財界の力で、ウィーンからプラハドレスデンベルリンを経由してハンブルクまでが鉄道で結ばれていった。

未解決の社会的、政治的、そして国家的紛争の為にドイツは統一国家を目指した[22]1848年革命に揺れ動かされた。結局のところ、ドイツ統一大ドイツか、大オーストリアか、オーストリアを除いたドイツ連邦の何れかに絞られる。オーストリアにはドイツ語圏の領土を手放す意思はなく、そのため1849年フランクフルト国民議会がプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世へドイツ皇帝の称号を贈ったものの拒否されてしまった。1864年、オーストリアとプロイセンは連合してデンマークと戦いシュレースヴィヒ公国ホルシュタイン公国をデンマークから分離させた(シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争)。だが、オーストリアとドイツは両公国の管理問題で対立し、1866年普墺戦争を開戦する。ケーニヒグレーツの戦い[22] で敗れたオーストリアはドイツ連邦から脱退し、以後、ドイツ本土の政治に関与することはなくなった[23][24]

1867年のオーストリアとハンガリーの妥協(アウスグライヒ)により、フランツ・ヨーゼフ1世を君主に戴くオーストリア帝国とハンガリー王国の二重帝国が成立した[25]。オーストリア=ハンガリーはスラヴ人ポーランド人ウクライナ人チェコ人スロバキア人セルビア人クロアチア人、更にはイタリア人ルーマニア人の大きなコミュニティまでもを支配する多民族帝国であった。

この結果、民族主義運動の出現した時代においてオーストリア=ハンガリーの統治は次第に困難になりつつあった。それにもかかわらず、オーストリア政府はいくつかの部分で融通を利かすべく最善を尽くそうとした。例えばチスライタニア(オーストリア=ハンガリー帝国におけるオーストリア部分の呼称)における法律と布告(Reichsgesetzblatt)は8言語で発行され、全ての民族は各自の言語の学校で学べ、役所でも各々の母語を使用していた。ハンガリー政府は反対に他の民族のマジャール化を進めている。このため二重帝国の両方の部分に居住している諸民族の願望はほとんど解決させることができなかった。オーストリアはイタリア統一運動の終盤からフランスへある程度接近せざるをえなかった。

帝国郵便が17世紀パール家(Paar)に譲ったオーストリア事業は1816年国有化された。

もう一つの郵便制度がオスマン帝国との外交チャンネルとして開拓されていた。オーストリアはチューリップ時代のはじめからイスタンブールに弁理公使を常駐させていた。そして、友好国のイスタンブール駐在大使についても通信文の郵送を請け負った。1746年、マリア・テレジアがウィーンとイスタンブール間で月一回の定期郵送を命じた。1748年イスタンブールとイズミルにオーストリア郵便局が設立された(オスマン帝国最初の郵便局)。1788-91年の交戦中は郵便が停止されたが、戦後まもなく復活し、新たにアナトリア、エジプト、クレタ、ドナウ周辺にも郵便局が開設された。[26]

1910年、オスマン帝国に置かれていたオーストリア郵便局は28も存在した。このうち国有郵便局は7つにすぎず、残りはオーストリア・ロイド汽船会社(?sterreichischer Lloyd)の郵便局であった。汽船会社の親会社はロイド・アウストリアコ(Lloyd Austoriaco)という調査・出版会社で、1833年トリエステに設立されてからイギリスの海上保険に関する情報を発信していた。汽船会社は第二部門として、1836年にブルック(Karl Ludwig von Bruck)の計画とザーロモン・ロートシルトの資本参加で発足した。1837年、汽船会社はオーストリア政府と郵便契約を結び、レバント各地への海上郵便輸送を担当の上、収益の八割を約束された。そして汽船会社は自社の代理店として郵便局を設置したのである。[27][26]

1874年万国郵便連合の創設に関する条約を討議する第一回郵便会議(ベルン)において、オスマン帝国は外国郵便局の追放を目指すと宣言した。1884年にオスマン帝国は大ブルガリア公国と郵便協定を結び、イスタンブールとヴァルナ間の郵袋をブルガリア郵便に引受させるという通達を諸国に発信した。こうしてスタートしたオスマン独自の汽船郵便であったが、オーストリア・ロイド汽船との熾烈な競争にあえなく敗れた。オスマン帝国は1890年代以降に憲兵を使うなどして外国郵便の営業を妨害したので、万国郵便連合での発言力を失ってしまった。[26]

1908年10月、オーストリアはボスニア・ヘルツェゴビナを併合した。その直後からオーストリア・ロイド汽船は荷揚げボイコットの標的となった。それは11月末に過激なものとなった。ロイド船で輸送されたバトゥミ宛て貨物をフランス籍の船が積み替えようとした際に、オスマン役人がフランス汽船会社の代理店に現れ、積み替えを行えば黒海のオスマン領内の全港に向けて、フランスの船をボイコットするよう打電すると警告した。脅しに屈した会社は、ロイド船の貨物を再び積み戻した。[26]

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出典:Wikipedia
2019/09/02 22:30
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