オーストリア
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3.歴史
3.5.マリア・テレジアと二元主義
レオポルト1世1657年 - 1705年) の長期の治世では、1683年ウィーン包囲戦の勝利(指揮をしたのはポーランド王ヤン3世[20] に続く一連の戦役(大トルコ戦争1683年 - 1699年)の結果締結された1699年カルロヴィッツ条約によりオーストリアはオスマン帝国領ハンガリー全土・トランシルヴァニア公国スラヴォニアを獲得した。カール6世1711年 - 1740年)は家系の断絶を恐れるあまりに先年に獲得した広大な領土の多くを手放してしまう(王領ハンガリー、en:Principality of Transylvania (1711?1867)、en:Kingdom of Slavonia)。カール6世は国事詔書を出して家領不分割とマリア・テレジアにハプスブルク家を相続させる(あまり価値のない)同意を諸国から得る見返りに領土と権威を明け渡してしまった。

1731年、ザルツブルク大司教領(1278年 - 1803年)のザルツブルク大司教フィルミアン男爵レオポルト・アントン・エロイテリウス(在位:1727年 - 1744年)によるプロテスタント迫害(de:Salzburger Exulanten)が始まり、2万人と云われる人口流出が起った。多くのプロテスタントを受け入れたプロイセンが大国として擡頭することになった。このザルツブルク追放を題材にして、ゲーテは『ヘルマンとドロテーア』を書いた。

カール6世の死後、諸国はマリア・テレジアの相続に異議を唱え、オーストリア継承戦争1740年 - 1748年)が起き、アーヘンの和約で終結。ウェストファリア条約で過酷な経済制裁を受けていたアントウェルペンが復興した(ベルギー#オーストリア再び)。プロイセン領となったシュレージエンを巡って再び七年戦争1756年 - 1763年)が勃発。オーストリアに勝利したプロイセンの勃興により、オーストリア=プロシア二元主義が始まる。二元主義というのは政体というよりも宗教対立というべきもので、プロイセン経済はオランダのそれと共通してユグノーが台頭せしめたのである。オーストリアはプロイセン、ロシアとともに第1回および第3回のポーランド分割1772年1795年)に加わった。

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(3.4.ヴェストファーレン条約という審判)
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(3.6.神聖ローマ帝国の解体とウィーン体制)
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出典:Wikipedia
2019/08/17 18:00
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