オーストリア
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3.歴史
3.4.ヴェストファーレン条約という審判
皇帝カール5世の治世におけるアントウェルペンは、コスモポリタンとしてポルトガルセビリアと結びつき、二度の活況を享受した。ポルトガルはアフリカの、セビリアはアンティル諸島の貿易窓口となった。

1526年モハーチの戦いでハンガリー王ラヨシュ2世が戦死した後、ボヘミア地域とオスマン帝国が占領していないハンガリーの残りの地域がオーストリアの支配下となった[19]。1529年、第一次ウィーン包囲。オスマン帝国のハンガリーへの拡大により、両帝国はしばしば戦火を交えるようになった(東方問題)。これは二国間紛争のようでいて、教皇庁にとっては旧東ローマ帝国を奪還するのに、フランスとハプスブルクとのいずれが尖兵にふさわしいかという政治問題でもあった。そこでカール5世はカトリックへ接近していった(宗教改革#シュマルカルデン戦争)。1556年、カール5世が退位してスペイン=ハプスブルク家が枝分かれした。このときにアントウェルペンの隣でネーデルラントがスペイン領となった。1565年、スペイン領フロリダユグノー植民を殺す事件が起こった。そしてオランダ独立戦争に発展した。トルコとの長い戦争(Langer T?rkenkrieg)は三十年戦争に影響したが、いずれも東ローマの回収を伏線とする点ではオランダ独立戦争と並行・連動するものであった。1648年ヴェストファーレン条約が結ばれて、神聖ローマ帝国は形骸化しフランスが勢力を伸張した。

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出典:Wikipedia
2019/01/17 14:00
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