オーストリア
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3.歴史
3.3.イタリア政策が結婚政策となるまで
フリードリヒ3世の死後一世紀あまりの間、ハプスブルク家はローマ王位から遠ざかった。しかし、この間にも政争は絶えなかった。1335年、ゲルツ伯家のハインリヒ6世が没し、唯一の女子マルガレーテ・マウルタッシュが伯位を継承したが(チロル女伯)、領土の相続をめぐってルクセンブルク家ヴィッテルスバッハ家ハプスブルク家が介入した。銀山のあるチロルは位置もイタリア政策の拠点となりうる垂涎の的であった。

1349年、フランスがドーフィネを獲得してハプスブルクとの緊張を深め、のちの教会大分裂に発展した。1358年にハプスブルクはオーストリア大公オーストリア大公国)を称した。1363年、ハプスブルク家のオーストリア公ルドルフ4世は、マルガレーテを退位させて強引にチロル伯領を継承、以後チロル地方はハプスブルク家の統治下に置かれた。「チロル伯領」の首都は、1418年にメラーノに移転し、ついでインスブルックに移った。14世紀から15世紀にかけて、このようにハプスブルクはオーストリア公領周辺領域を獲得していく。領土の一円化はコンスタンツ公会議でイタリア政策が頓挫してから急務であった。1438年アルブレヒト2世が義父ジギスムントの後継に選ばれた。アルブレヒト2世自身の治世は1年に過ぎなかったが、これ以降、一例を除いて神聖ローマ皇帝はハプスブルク家が独占することになる。

ハプスブルク家は世襲領をはるかに離れた地域にも領地を獲得し始める。1477年フリードリヒ3世の唯一の子であるマクシミリアン大公は跡取りのいないブルゴーニュ公国マリーと結婚してネーデルラントの大半を獲得した[12][13]。彼の子のフィリップ美公カスティーリャアラゴンの王女フアナと結婚した。フアナがのちに王位継承者となったためスペインを得て、さらにその領土のイタリア、アフリカ、新世界をハプスブルク家のものとした[12][13]

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(3.2.教会のハプスブルク包囲網)
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(3.4.ヴェストファーレン条約という審判)
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出典:Wikipedia
2020/01/18 01:00
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