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オーストリア大公国
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概要
オーストリア大公国(オーストリアたいこうこく、: Erzherzogtum ?sterreich洪語: Osztr?k Hercegs?g、チェコ語: Rakousk? arciv?vodstv?)は、神聖ローマ帝国内の領邦の一つで、現在のオーストリア共和国の前身。1457年の成立から1806年の神聖ローマ帝国の解体まで、ハプスブルク家、のちその後身のハプスブルク=ロートリンゲン家が統治した。いわゆるハプスブルク帝国の中核をなし、オーストリア帝国の成立以後もその重要な構成国となった。

元来のオーストリア公領に含まれない領域であっても、オーストリア・ハプスブルク家が支配した地域を合わせて「オーストリア(エスターライヒ)」と呼称することが多いため、本項ではその部分も含めて記述する。

概要[編集]

前身はオーストリア公国で、さらにバーベンベルク家のオストマルク東方辺境伯領が起源である。

神聖ローマ帝国の南東辺境部の一領邦ではあるが、オーストリア大公であるハプスブルク家当主はこの時代以降に神聖ローマ皇帝位をほぼ世襲化したため、中央ヨーロッパの大国として帝国内で主導権を有していた。中世後期には既に形骸化しつつあった神聖ローマ帝国が、近世初期のヴェストファーレン条約によって完全に有名無実化すると、ハプスブルク家の「オーストリア」として中東欧方面に領土を拡大、列強国の一つとして君臨し続けた。

1804年ナポレオン・ボナパルトフランス皇帝を称すると、オーストリア大公でもあった神聖ローマ皇帝フランツ2世は、オーストリア皇帝フランツ1世を称した。そして1806年には、神聖ローマ帝国が正式に解体され、所領はオーストリア帝国として再編された。

歴史[編集]

1359年ルドルフ4世がオーストリア大公を僭称する。
1438年アルブレヒト2世(オーストリア領主としてはアルブレヒト5世)がローマ王に即位、以後ハプスブルク家が神聖ローマ帝国君主位を世襲する。
1457年、神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世(オーストリア領主としてはフリードリヒ5世)がオーストリア大公の称号を正式のものとして帝国法で定める。
1526年モハーチの戦いハンガリー王ラヨシュ2世が戦死する。皇帝フェルディナント1世が王位を獲得し、ハンガリー北部及び西部を領有する。
1529年第一次ウィーン包囲で、オスマン帝国の攻撃を退ける。
1555年アウクスブルクの和議
1618年三十年戦争が勃発。ローマ・カトリック勢力として参戦。
1648年ヴェストファーレン条約を締結、ボヘミアを奪回する。
1683年第二次ウィーン包囲でオスマン帝国の攻撃を退ける。撤退したオスマン帝国軍を追撃し、大トルコ戦争が始まる。
1699年カルロヴィッツ条約を締結、ハンガリー東部及び南部トランシルヴァニア公国スラボニアを獲得。
1701年スペイン継承戦争が勃発。レオポルト1世が息子カール(のちのカール6世)を王位請求者に立ててフランスブルボン家とスペイン王位を争う。
1714年ラシュタット条約を締結、南ネーデルラントなどを獲得。
1716年墺土戦争でオスマン帝国に勝利し、西ワラキア、北セルビア及び北ボスニアを獲得。
1740年マリア・テレジアが女大公となる。オーストリア継承戦争が勃発、シュレージエンを失う。
1756年七年戦争が勃発。
1763年フベルトゥスブルク条約を締結、プロイセンによるシュレージエン領有が確定。
1772年第一次ポーランド分割ガリツィアを獲得。
1795年第三次ポーランド分割クラクフを獲得。
1804年フランツ1世がオーストリア皇帝を称する(オーストリア帝国の成立)。

参考文献[編集]

大津留厚『ハプスブルク帝国』(1996年山川出版社
『ダイアローグ世界史年表』(第一学習社
出典:Wikipedia
2019/07/22 23:02
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