オーストリア人
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概要
オーストリア人ドイツ語: ?sterreicher 女性形は?sterreicherin)は、
1.の中でも特にドイツ語オーストリアドイツ語バイエルン・オーストリア語アレマン諸語の一部など)を母語とする人々。オーストリア国民の9割以上を占める。ドイツ系オーストリア人という呼び方をする場合もあるが、この呼び名が(たとえば日系アメリカ人のように)ドイツ連邦共和国からの移住者やその2世3世を指すことは滅多になく、ほとんどは累代のオーストリア人である。

概要[編集]

もともと、現在のオーストリアは神聖ローマ帝国皇帝位を近世に独占していたハプスブルク家の領国オーストリア大公国の後身であり、名目上とはいえオーストリアはドイツ諸邦の盟主の座にあった。神聖ローマ帝国が崩壊した後、神聖ローマ皇帝フランツ2世オーストリア皇帝フランツ1世と称し、オーストリア帝国が成立した。しかしハプスブルク家が世襲してきた領国(ハプスブルク帝国)には11の民族と5,000万の民族が居住しており、彼らがオーストリア家(ハプスブルク家)に忠誠を誓うことでオーストリア帝国は糾合されると考えられた。そのため「領地はたくさんある。人口はたくさんある。オーストリア民族はいない。国家はない」(H・アンディクス)と言われる有様であった。神聖ローマ帝国亡き後に発足したドイツ連邦の議長国はオーストリア帝国であった。ドイツ連邦の解体後はプロイセン王国を中心とするドイツ帝国とハプスブルク家のオーストリア=ハンガリー帝国に完全に分断されたが、その後もアンディクスの評を証明するように、オーストリアのドイツ語話者の間には自分たちは「ドイツ人」であるという意識が続いた。19世紀オーストリアを代表する宰相メッテルニヒも、オーストリア域外出身のドイツ人である。

第一次世界大戦によって「民族自決の原則」に従いオーストリア=ハンガリー帝国は解体に向かい、大戦末期の1918年オーストリア革命によって第一共和国が成立した。上オーストリア下オーストリアケルンテンザルツブルク地方チロルのドイツ人居住地域(南チロルを除く)などを残すのみの小国となったオーストリアでは、ドイツとの統合が政治的立場の左右を問わない国民の念願となったが、サン=ジェルマン条約によってドイツとオーストリアとの統合は禁じられた。

ドイツ・オーストリア合邦がようやく実現したのは1938年のことだったが、それは決して平和的なものではなく、ナチス・ドイツによる軍事的圧力のもとで行われた。エスターライヒ(オーストリアのドイツ語名)という地名は抹殺されて「オストマルク」と改称させられ、戦争の惨禍に巻き込まれた。ナチス・ドイツを率いたアドルフ・ヒトラーはオーストリア出身で、ドイツに移り「ドイツ民族の糾合」を唱えたが、自身のルーツはボヘミアチェコ)系(ボヘミア・ドイツ人?)であった。ボヘミア自体も現在こそスラヴ系が圧倒的多数となっているが、ドイツ人入植者が多かったころは神聖ローマ帝国の帝都としてプラハがドイツ民族の中心となった時期もあり、スラヴ系でもゲルマン風の名乗りが多くなるなど、その住民の出自は混沌としている。ドイツ人がこうしたものであるように、オーストリア民族というのは文化的集団であり、後述するように国家によって創造される概念である。

ナチス・ドイツ統治下を経て、オーストリア人は自分たちがドイツ人ではなくオーストリア人であるという感情(アイデンティティ)を初めて抱くようになり、1955年カール・レンナー首班によるオーストリア第二共和国が成立する。しかし、今なお右派政党は国号にドイツの文字を入れるように主張し、またしばしば、上記2の意味合いでドイツ人という言葉が用いられる。特に近年、統一EUの発足後、東欧人トルコ人への差別意識を背景にドイツ民族主義の復興が著しい。オーストリアの地名には頭にドイッチェ(ドイツ人の)とつくものがドイツ以上に目立つが、これはドイツ人地域内で南東部に位置して異民族との境界に接してきた歴史を反映している。

関連項目[編集]

オーストリア人の一覧
ドイツ語
バイエルンオーストリア語
オーストリアドイツ語
ドイツ人
ハプスブルク家
第一共和国 (オーストリア)
アンシュルス
バイエルン人

出典[編集]

The sound of success, Economist, Nov 22nd 2007
出典:Wikipedia
2018/10/19 22:01
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