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エルサレム攻囲戦 (1099年)
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5.その後
虐殺が終わると、7月22日、ゴドフロワ・ド・ブイヨンは「アドヴォカトゥス・サンクティ・セプルクリ」(Advocatus Sancti Sepulchri, 聖墳墓守護者)となった。彼はキリストの死んだ場所で「王」となることをよしとせず、「キリストがいばらの冠をかぶせられた場所で、金の冠をかぶるのは断る」と言い、このような称号を名乗ることになった。レーモンもどのような称号を得ることも拒んだため、ゴドフロワはレーモンにダビデの塔の支配権をあきらめるよう説得した。レーモンはこの後巡礼に出かけてエルサレムを空け、その間の8月1日、アルヌールが最初のカトリック系のエルサレム総司教となった(レーモンはペトルス・バルトロメオを支持していたため、アルヌールの総司教就任については反対であった)。8月5日、アルヌールは「真の十字架」を手に入れることになる。

ゴドフロワは軍を率い、真の十字架を先頭に立てて、エルサレムに迫るファーティマ朝の軍隊との戦いに挑んだ。ファーティマ朝軍は、エルサレム救援に出発したものの、その陥落の時点ではまだシナイ半島を横断中であった。8月12日、ゴドフロワはアスカロンの戦いでファーティマ朝軍と衝突し、完膚なきまでに打ち破った。

しかしこの戦いののち、十字軍の大半はエルサレムへの巡礼という大目的を果たしたことに満足し、数100人ほどのわずかな騎士を除いてその大半が故国に戻り始めた。このわずかな騎士たちが、エルサレム王国をはじめとする十字軍国家をレバントに確立することになる。

一方アスカロンの戦いの直後、ダマスカスのカーディー(法官)であったアブー・サアド・アル=ハラウィらは、難民を引き連れてイスラム世界の中心地でアッバース朝カリフの座所でもあるバグダードに到達した。8月19日金曜日には、彼らは金曜礼拝の行われているモスクで、ラマダーンであるにもかかわらず飲食を始めた。彼は怒って押し寄せた群衆に、聖地が破壊されムスリムが多数殺されたことに無関心なのにどうして断食破りごときで騒ぐのかと問いかけ、十字軍の惨害を語って聴衆を沈黙させ涙させたという。しかしアッバース朝のカリフ・ムスタズヒルも、事実上の支配者であるセルジューク朝スルタンのバルキヤールクもアル=ハラウィらの訴えに反応を示さなかった。繊細なムスタズヒルは後宮で歓楽に溺れ、バルキヤールクはバグダードを空けてセルジュークの故地であるイラン北部で実弟ムハンマドと戦っている最中であった。1099年から1101年までの間、バルキヤールクとムハンマドはバグダードの争奪を繰り返した。このような兄弟喧嘩でセルジューク朝が機能不全に陥っている間、レバントに留まったわずかな数の十字軍が着々と十字軍国家の足場を固めていった[20]

エルサレムの戦いは、西洋ではすぐさま伝説化している。12世紀初頭には武勲詩の題材となり、『エルサレムの歌』(Chanson de J?rusalem)などは大いに人気を博した。

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(4.3.東方正教徒)
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(6.脚注)
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出典:Wikipedia
2019/06/25 02:30
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