ウマイヤ朝
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2.歴史
2.4.最後の輝きと滅亡

マワーリー問題[編集]


アブドゥルマリクは、ウマイヤ朝を再統一したが、ウマイヤ朝の版図で、新たな問題が生まれていた。イスラームの教義で、ムスリムは十分の一税(ウシュル)のみを租税として支払うものの、ジズヤとハラージュが免除されており、異教徒は、重税の負担を余儀なくされた[8]。そのため、異教徒は、次々とイスラームへと改宗し、租税の負担を回避するために、都市へと流入した[8]。異教徒からイスラームへ改宗した人々をマワーリーと呼ぶ。マワーリーの都市の流入は国庫の歳入の減少を意味した[8]

第8代カリフであるウマル2世(在位:717年-720年)は、マワーリーの問題に対処するために、マワーリーの不満を解消するための改革を実施した。その内容は、以下の通りである[9]

ムスリムのミスル(都市)への自由を認めた。
ムスリムには、一切租税が課されず、宗教的な義務としてのサダカを課した。
ミスルに移住したマワーリーを官庁に登録し、俸給(アター)を支給した。
農村にとどまったマワーリーには従来通りの租税を徴収した。
ヒジュラ暦100年(718年8月3日から719年7月23日)以後、耕地の販売を禁止した。
しかし、ウマル2世の統治が短かったこともあり、ウマル2世の改革は、ほとんど効果が無かったと考えられる[10]。マワーリーは、都市への自由を獲得したものの、それで生計が立てられるわけでもなかった。農民には、従来通りの租税が課せられたわけで、イスラームの教義である「神の前での平等」とは明らかに矛盾した状況は変わらなかった[10]

部族対立の潜在化と地方の反乱[編集]


アブドゥルマリクの第4子で、第8代カリフとなったヒシャーム(在位:724年-743年)の時代は、ウマイヤ朝最後の輝きを見せた時代である。しかしながら、ヒシャームの時代でも、マワーリーの問題が解決したわけでもなく、さらには、アラブ人の部族対立が明らかとなった時代であった。

時代は、ウマイヤ朝草創期にさかのぼる。アラビア半島からイラクへと進出したアラブ人の主力は、北アラブの出身であり、その中でもカイス族が最有力であった[11]。一方で、シリア移住したアラブ人の出身は、南アラブの出身であり、その中でもイエメン族が有力であった[11]。ムアーウィヤの権力基盤は、イエメン族に置いていた[11]。一方、時代は下り、アブドゥルマリクとハッジャージュはカイス族を重用した[11]。ヒシャームは、イラクに基盤を置くカイス族とは距離を置き、カイス族出身のイラク総督を解任し、その後任には、イエメン族を充てた[11]。カイス族とイエメン族の対立は、カリフ位をめぐる権力闘争、重要な行政職の獲得競争と深くかかわるようになったのである[11]

ヒシャームの時代は、地方で反乱も起きた。734年ホラーサーン地方に進出したアラブ軍が、西突厥蘇禄と結び、ウマイヤ朝に反旗を翻した[11]。ホラーサーンに進出したアラブ人の主力は、イラクのバスラからイランに定住したアラブ人であり、彼らは、ムスリムであれば当然であるアラブ人の特権が認められることは無く、不満が鬱積していた[12]。この反乱自体はすぐに鎮圧されたものの、不満が解消されることは無かった[11]

シーア派の不満とアッバース家[編集]


680年のカルバラーの悲劇以降、シーア派は、ウマイヤ朝の支配に対しての復讐の念を抱き続けた。フサインの異母兄弟にあたるムハンマドこそが、ムハンマド及びアリーの正当な後継者であるという考えを持つ信徒のことをカイサーン派と呼ぶ。ムフタールの反乱は、692年に鎮圧され、マフディーとして奉られたイブン・アル・ハナフィーヤは、700年にダマスカスで死亡した。しかし彼らは、イブン・アル・ハナフィーヤは死亡したのではなく、しばらくの間、姿を隠したに過ぎないといういわゆる「隠れイマーム」の考えを説いた[13]。カイサーン派は、イブン・アル・ハナフィーヤの息子であるアブー・ハーシム(? - 716年[14])がイマームの地位を継いだと考え、闘争の継続を訴えた[15]。さらに、アブー・ハーシムが死亡すると、そのイマーム位は、預言者の叔父の血を引くアッバース家のムハンマドに伝えられたと主張するグループが登場した[15]

アッバース家のムハンマドは、ヒジュラ暦100年(718年8月から719年7月)、各地に秘密の運動員を派遣した。ホラーサーンに派遣された運動員は、ササン朝時代に異端として弾圧されたマズダク教の勢力と結び、現地の支持者を獲得することに成功した[15]747年、アッバース家の運動員であるアブー・ムスリムがホラーサーン地方の都市メルヴ近郊で挙兵した[16]。イエメン族を中心としたアブー・ムスリムの軍隊は、翌年2月、メルヴの占領に成功した[16]。アブー・ムスリム配下の将軍カフタバ・イブン・シャビーブ・アル・ターイは、ニハーヴァンドを制圧後、イラクに進出し、749年9月、クーファに到達した[17]

749年11月、クーファで、アブー・アル=アッバースは、忠誠の誓いを受け、反ウマイヤ家の運動の主導権を握ることに成功した[17]750年1月、ウマイヤ朝最後のカリフ、マルワーン2世は、イラク北部・モスル近郊のザーブ川に軍隊を進め、アッバース軍と交戦した(ザーブ河畔の戦い)。ザーブ河畔の戦いでウマイヤ軍を破ったアッバース軍は、これにより、ウマイヤ朝の滅亡を確定させた(アッバース革命)。

ウマイヤ家のほとんどが、アッバース家による追及で殺害された。その中で、第10代カリフ・ヒシャームの孫であるアブド・アッラフマーン1世はシリアからモロッコに逃れた。彼は、後ウマイヤ朝を建国したその人である。

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出典:Wikipedia
2019/12/08 12:30
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