ウマイヤ朝
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2.歴史
2.2.第二次内乱
ムアーウィヤ死後、ヤズィード1世がカリフとなった。第二次内乱(680年 - 692年)の始まりである。この第二次フィトナは、シーア派によるウマイヤ家への挑戦とアブドゥッラー・イブン・アッズバイルによるウマイヤ家への挑戦の二段階に分けられる。

ヤズィード1世即位直後の680年10月10日カルバラーの悲劇という事件が起こった[1]。アリーの次男フサインシーア派クーファ市民と、反ウマイヤ家を掲げて行動を起こそうとするが、行動は事前に気づかれ、クーファ市民はフサインと共に行動を起こすことができず、メッカからクーファのシーア派と共に決起するためにやって来ていたフサイン軍七十余名は、ユーフラテス川の手前で待ちかまえていたウマイヤ朝軍4,000の圧倒的な数の差の前に敗れた[1]。このフサインの殉教は、シーア派にとって大きな意味を持つ。フサインの殉教は、シーア派にとって、どんなに悔やんでも悔やみきれない背信行為である一方で、スンナ派カリフに対する復讐の念がやがて、ウマイヤ朝末期の反ウマイヤ家運動において結実する[2]。フサインの殉教の日は、その後、彼の死を悼むアーシューラーの日となった[3]

683年、ヤズィード1世が死亡した。ヤズィードの後を息子のムアーウィヤが継いだものの、そのムアーウィヤも数十日で死亡したことで、ウマイヤ朝をめぐる情勢が大きく変化した。第二次フィトナの第二段階である。メッカのイブン・アッズバイル(初代カリフ、アブー・バクルの長女の子)はカリフを宣言し、イラクエジプトの民からバイア(忠誠)を受けた[4]685年には、イラクのクーファで、シーア派のムフタールが、アリーの子で、フサインの異母兄弟にあたるムハンマドをマフディー(救世主)にまつりあげてフサインの復讐を掲げ、南イラク一帯を勢力範囲にした[4]。ウマイヤ朝内部は、三者の鼎立状態となったものの、しかし、こちらはイブン・アッズバイルの弟であるムスアブが鎮圧した[4]

一方、ムアーウィヤ2世、マルワーン1世と短命のカリフが続いたウマイヤ家では、アブドゥルマリク685年、第5代カリフとなった。アブドゥルマリクのカリフの最初の仕事がヒジャース地方、イラク、エジプトで勢力を蓄えていたイブン・アッズバイルの討伐であった。692年、アブドゥルマリクは、ハッジャージュ・ブン・ユースフを討伐軍の司令官に任命した[5]。ハッジャージュは、12,000人の軍隊を持って、メッカを包囲した(メッカ包囲戦)。7ヶ月の包囲の末、ハッジャージュはメッカを攻略し、アッズバイルの一族はすべて殺され、ウマイヤ朝の再統一が完成した[5]

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(2.1.草創期:ムアーウィヤの時代)
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(2.3.全盛期:アブドゥルマリクの時代)
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出典:Wikipedia
2019/12/08 12:30
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