サービス終了のお知らせ
イジドール・イザーク・ラービ
▼人気記事ランキング
6.晩年
1945年、物理学教員協会(American Association of Physics Teachers)により開催されたフロイド・K・リヒトマイヤーを記念するリヒトマイヤー講演を行い、原子の磁気共鳴が時計の基礎として使えるかもしれないと提案した。ウィリアム・L・ローレンスThe New York Timesに"'Cosmic pendulum' for clock planned"という見出しでこれを書いた[55][56][57]。それからまもなくしてZachariasとラムゼーがこのような原子時計を造った[58]。ラビが磁気共鳴の研究を活発に進めたのは1960年ごろまでであるが、なくなるまで会議やセミナーへの出席は続けた[59][60]

1945年から1949年までコロンビア大学の物理学科長を務めた。この間コロンビア大学には、2人のノーベル賞受賞者(ラビとエンリコ・フェルミ)と11人のその後ノーベル賞を受賞する者、7人の教員(ポリカプ・クッシュ、ウィリス・ラムマリア・ゲッパート=メイヤーレオ・ジェームス・レインウォーターチャールズ・タウンズ湯川秀樹)、1人の研究科学者(オーゲ・ニールス・ボーア)、1人の客員教授(ハンス・ベーテ)、1人の博士学生(レオン・レーダーマン)、1人の学部生(レオン・クーパー)が所属した[61]。ラビの博士課程の学生であるマーチン・パールは1995年にノーベル賞を受賞した[62]。ラビはコロンビア大学の物理学ユージン・ヒギンズ教授職(Eugene Higgins professor of physics)であったが、1964年にコロンビア大学がこの大学教授の地位を作った際、ラビはこの地位に初めてついた人物である。これはラビが選んだものを何でも自由に研究したり教えたりできることを意味していた[63]。1967年に教職からは引退したが、学科で活動を続けなくなるまで名誉教授であった[64]。1985年にラビにちなむ特別な地位が作られた[65]

マンハッタン計画の遺産は米国エネルギー省国立研究所のネットワークであったが、東海岸にはなかった。ラビとラムゼーはニューヨーク地区にある大学のグループを集め、自身の国立研究所のためにロビー活動を行った。そのときMITにいたZachariasはそれについて聞いたとき、MITとハーバード大学にライバルとなるグループを設立した。ラビはマンハッタン計画を指揮したレズリー・グローヴス少将と話し合った。グローブスは新しい国立研究所に協力することに前向きであったが、1人だけであった。さらにマンハッタン計画にはまだ資金があったが、戦時中の組織は新たな権威が登場すると漸次廃止されることが予測された。ラビらによる交渉とロビー活動の後、2つのグループは1946年1月に一緒になった。最終的に9の大学(コロンビア、コーネル、ハーバード、ジョンズ・ホプキンズ、MIT、プリンストンペンシルバニアロチェスターイェール)が集まり、1947年1月31日、原子力委員会(AEC)との間に契約が結ばれ、マンハッタン計画は取って代わられ、ブルックヘブン国立研究所が設立された[66]

ラビはEdoardo Amaldiにブルックヘブンはヨーロッパ人がまねることができるモデルである可能性があることを示唆した。ラビは科学を戦争から依然再生中であるヨーロッパを、鼓舞し統一する方法とみなしていた。1950年、機会は彼がUNESCOのアメリカ代表に指名されたとき訪れた。1950年、フィレンツェヴェッキオ宮殿で行われたUNESCOの会議で、地域の研究所の設立を呼びかけた。これらの努力は実を結び、1952年、11の国の代表者が集まりConseil Europ?en pour la Recherche Nucl?aire (欧州原子核研究機構)が設立された。ラビはボーア、ハイゼンベルク、Amaldiらからこの成功を祝う手紙を受け取った。彼はその手紙を額に入れ、本拠のオフィスの壁に架けていた[67]

[4]前ページ
(5.第二次世界大戦)
[6]次ページ
(6.1.軍事的な事柄)
~目次に戻る
出典:Wikipedia
2019/09/11 17:30
ソ人気記事ランキング
2020/03/28 更新
 1位成宮いろは
 2位増岡弘
 3位大学の略称
 4位玉木玲
 5位ジャーマンウイングス9525便墜落事故
▲上に戻る
[9]Wikipediaトップ
[0]gooトップ
免責事項
(C)NTT Resonant