アドルフ・ヒトラー
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7.人物像
7.3.対人関係
ヒトラーはコミュニケーション能力にいささか問題があったようで、シュペーアによれば「彼は気取らないリラックスした会話ができなかったようだ」と観察し、「不機嫌な時の言葉は学童とほぼ同じ程度だった」と証言した。粛清されたエルンスト・レームも「彼は批判されるのが嫌いで、党内で彼の提案が疑問視されるとすぐさまその場から消え、自分が通じていない話をするのも嫌がった」と記している。

ただし客として面会した人間を魅了することはよく知られており、多くのドイツ人や、デビッド・ロイド・ジョージといった外国人もヒトラーと面会した際には好印象を持ったと語っている。しかしいったん敵となった人物に対しては口をきわめて罵った。たとえば1933年のニューヨーク・タイムズのインタビューでは、フランクリン・ルーズベルト大統領に対して「共感を覚える」「ヨーロッパにおいて大統領の方法や動機に理解をしめした唯一の指導者」などと語っていたが[288]、アメリカの参戦以降の評価はきわめて辛辣なものとなった。また枢軸国の首脳などには高額な贈り物を行い、ホルティ・ミクローシュは65万ライヒスマルクの機関付きヨットの贈与を受けている[289]

学者や官僚などの高等教育を受けた知的エリートを「知識はあるが感性のない連中」と嫌うなど、自らの教育水準(中等教育の途中放棄)にコンプレックスを抱いていたことが複数の人物から証言されている。青年期に図書館で書物を読み漁って独学に励んだり、後年にも専門的な議論へ必要以上に口を挟みたがった。地政学を提唱した学者のカール・ハウスホーファーは自身の理論を積極的に引用していたヒトラーと面会したが、「正規の教育を受けた者に対して、半独学者特有の不信感を抱いている」とする感想を残している[290][311]。独学で学んだ知識については確かにある程度は博識なものの、独学者にありがちな偏った知識や表面的な理解のみという部分があり、先のハウスホーファーも「地政学を全く理解できていなかった」と指摘している。

こうしたヒトラーを特徴付ける劣等感は学識だけではなく、軍歴においてもそうであった。軍隊生活の最終階級が低かったため、元帥であるヒンデンブルク大統領、現役軍人においてもゲルト・フォン・ルントシュテットエーリヒ・フォン・マンシュタインら国防軍将官からは「ボヘミアの伍長」としばしば蔑視されていた。逆にヒトラーのお気に入りの軍人は、ドイツが攻勢であった大戦前半は、華々しい攻勢作戦を指揮したロンメル、エーリヒ・フォン・マンシュタイン、ハインツ・グデーリアンらであったが、守勢に立たされて以降は、頑強な守備作戦の指揮に定評のあった、ヴァルター・モーデルフェルディナント・シェルナーらがこれに代わった。また、ゲルト・フォン・ルントシュテット元帥はその旧プロイセン軍人風の威厳が好まれて、何度も解任されてはまた重要なポストに再起用された。

社会階級的にもいわゆる貴族階級やユンカーなどの上流階級を憎み、自身が「プロレタリアート(労働者階級)」であることを演説において強調した。このことは党内で家柄ではなく生物学的な条件で選抜した親衛隊を指導層に置いたり、帝政ドイツ時代の皇帝ヴィルヘルム2世の会見要請にも応じないなどの姿勢に現れている。プロイセン軍時代からの伝統を引き継ぐ国防軍において、ユンカーとの対立は上記の経緯と共に軍上層部との対立を生んだ。戦争中には参謀本部に対する不信をあらわにして何度も参謀総長を更迭した。さらに平民出身者が多数を占める親衛隊の武装部門(武装親衛隊)を巨大化させ、国防軍上層部から党へと軍権力を分散させようとした。大戦末期にはヒトラー暗殺計画の関係者に多くのユンカーが加わり、ヒトラーの側も敗戦の責任をユンカーが多数を占める陸軍参謀本部が原因としている。

ベニート・ムッソリーニ[編集]


同時代の政治家では政界入りを志してから政権獲得まで、イタリアのベニート・ムッソリーニに心酔に近い感情を抱いていたことで知られている。教師出身で豊富な学識から新しい政治思想「ファシズム」を理論化し、政治家としてもイタリアでの独裁権獲得と経済立て直しに成功していたムッソリーニをヒトラーは自らの手本としていた。バイエルン時代には自らが設計した党本部の執務室にフリードリヒ大王の絵画と共に、ムッソリーニの胸像を掲げていたという。同盟国の要人を表彰するべくドイツ鷲勲章(ドイツ鷲騎士団)を自ら創設すると、その最高等級である「ダイヤモンド付ドイツ金鷲大十字勲章」(Grosskreuz des Deutschen Adlerordens in Gold und Brillanten) をムッソリーニのみに授与している。ハンガリーのホルティ・ミクローシュ、ルーマニアのイオン・アントネスク、フィンランドのカール・グスタフ・エミール・マンネルヘイムら他の枢軸国の元首・軍首脳への授与が他の等級に留まっていることとは明らかに対照的である。

こうした熱烈なヒトラーからの親愛とは裏腹にムッソリーニの側はヒトラーを「無学な新参者」と見下している向きがあった。「私は二流国の一流指導者だが、彼は一流国の二流指導者だ」と皮肉る発言をし、また北方人種論や反ユダヤ主義などの人種主義にも嫌悪感を抱いていた。初会談の席を設けられた時もヒトラーを「道化者」と酷評しており、むしろヒトラーと敵対するオーストリアのエンゲルベルト・ドルフースの方に好感情を抱いていた。しかし独伊両国が侵略政策で孤立し始めると急速に接近するようになり、ムッソリーニもヒトラーの親愛に応じるようになった。公式に開かれた独伊首脳会談だけで16回も行われ、歴訪についてもムッソリーニがドイツに一回、ヒトラーがイタリアに二回赴いて行っている。その中でもムッソリーニの第一次ドイツ歴訪でのヒトラーの歓待ぶりは良く知られているが、ムッソリーニもヒトラーへの心配りを忘れなかった。

ヒトラーの第二次イタリア歴訪ではローマ、ナポリ、フィレンツェなどを周遊したが、最後に訪れたフィレンツェでヒトラーの古典芸術趣味を知っていたムッソリーニが街中の美術館を全て貸し切りにし、公式行事を全て後回しにしてヒトラーと芸術鑑賞をするというサプライズを用意した。ヒトラーの喜びようは尋常ではなく、ミケランジェロの絵画を陶酔した目で眺め、フィレンツェの街並を一望した時には笑いながら「とうとう、とうとう私はベックリンフォイエルバッハが分かった!」と叫ぶ有様だった[291]。ムッソリーニは想像を超えるヒトラーの上機嫌さはともかく、どの美術館でも最後に必ず「ボリシェヴィキが到来すれば、この世界全てが破壊される」と同じ台詞を口にするのには呆れた様子だった。ミケランジェロ聖家族を見た後にヒトラーが「ボリシェビキが来れば…」と言いつつ振り返ると、ムッソリーニは「全てが破壊される」と苦笑いしながらドイツ語で答えている[291]

第二次世界大戦勃発後は目覚しい圧勝を重ねるドイツに対して、軍事的に従属するイタリアの発言権は弱まっていった。これに従いヒトラーとムッソリーニの間柄も主導権が入れ替わり、クーデターでムッソリーニが失脚すると立場は完全に逆転した。一方でヒトラーの友情や尊敬の念は変わらず、イタリア社会共和国を建国する際、親独的な姿勢から当初予定されていたロベルト・ファリナッチがムッソリーニを批判する発言をしたことに激怒して決定を撤回している。ヒトラーにとってムッソリーニはただの傀儡ではなく紛れもない友であった[292]。ムッソリーニがパルチザンに処刑された報告を聞いた際、ヒトラーは激しい動揺を示している。

クーデンホーフ=カレルギー[編集]


パン・ヨーロッパ連合主宰者の日系オーストリア人貴族リヒャルト・ニコラウス・栄次郎・クーデンホーフ=カレルギー伯爵、博士)に対しては、「全世界的な雑種のクーデンホーフ」(= Allerweltsbastarden Coudenhove アラーヴェルツバスターデン・クーデンホーフ)[314]であると1928年執筆(死後の1961年出版)の自著『第二の書(続・我が闘争)』で形容して嫌っていた[315]。クーデンホーフ=カレルギーは根無し草、コスモポリタン(世界人)、エリート主義の混血で、ハプスブルク一味であった過去の失敗を大陸規模でやるというのが、ヒトラーにとってのクーデンホーフ=カレルギー像であった[316]

クーデンホーフ=カレルギーの側からもヒトラーへの批判があり、その後、表立ってのさまざまな応酬を繰り返してクーデンホーフ=カレルギーを米国亡命に追い込んだ。

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出典:Wikipedia
2019/09/23 17:31
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