アップル (企業)
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2.歴史・沿革
2.4.Macintoshの発表・ジョブズの追放
1980年秋にLisaの開発チームから外された後、ジョブズはジェフ・ラスキンが立ち上げた新型コンピュータ「Macintosh(マッキントッシュ)」のプロジェクトに参画した[52][46][54]。Macintoshの開発は1979年9月に始まり、1,000ドル程度の安価な一般庶民向けコンピュータというコンセプトの元で進められていたが、ジョブズはLisaに匹敵する高性能なマシンへの方向転換を主張し、性能よりも価格の抑制を重視するラスキンとは激しく対立した[47][52]。最終的に、ジョブズはUCSDでラスキンの教え子であったビル・アトキンソンや、ビュレル・スミスといった開発チームの主要メンバーを取り込むことに成功し、ラスキンは1981年1月にプロジェクトのリーダーを降りることとなり、1982年3月にはアップルを去った[47][52][56]

ジョブズはMacintoshにはシンプルな美しさが必要だと考え、拡張スロットの採用を拒否し、フロッピーディスクドライブもイジェクトボタンはみすぼらしいという理由で、現在にも通ずるオートイジェクトのドライブをソニーに開発させ、採用した。マウス、GUIといったものだけでなく、視覚的にも動作的にも美しく分かりやすいものを採用した。Lisaプロジェクトに強い対抗心を抱いていたジョブズは、Macintoshの開発をアップル本社とは独立したプロジェクトとして推し進め、「海軍に入るより、海賊であれIt's better to be a pirate than to join the navy)」と説いて開発メンバーの連帯感と反骨精神を鼓舞した[46][52]。そして、この精神のシンボルとして、Macintoshプロジェクトが行われていたビルの屋上にはドクロマーク海賊旗が掲げられた[46]

Macintoshの開発は難航し、1984年1月にようやくスーパーボウルの伝説のCM『1984』とともにデビューを果たした。しかし、Apple IIとの互換性はまったくなく、当然対応するサード・パーティのソフトもほとんどなかった。そこでAppleは、外部のソフト会社にマック用のソフト開発を説得する職種であるエバンジェリスト(宣伝部)を作り、ガイ・カワサキらを任命した。社内では波乱が起きてはいたが、AppleはMacintosh(The computer for the rest of us[57])という新たなパーソナルコンピュータを登場させることで、すべてのコンピュータ業界に新たな方向性を示した。

そしてAppleは、Macintosh向けにキヤノンと共同開発したレーザープリンターであり、アドビシステムズが開発したPostScriptを搭載したLaserWriterを登場させ、コンピュータ上で描いた文字や絵を出力する際にドットの粗いディザを表示させることなく、きれいなアウトラインで出力することを可能にした。また、アルダス社(現・アドビシステムズ)の開発したPageMakerとMacintosh、レーザーライターを組み合わせることで、DTPという市場を創造した[49]。現在でもDTP用途ではMacintoshが多用されているのは、この2つの製品による革命とPostScriptの採用[49]、高価ではあったがグラフィック処理にも耐えうるモトローラCPUの採用に起因していると言える。

1981年、スコットは能力不足を理由にマークラに解雇される。暫定的にマークラが社長の座についたが、ジョブズは会長ではあったものの、自身の経営者としての資質に疑問を抱き始めており、スコットの後任としてマーケティングに優れた社長となる人物を連れてくる必要に迫られた。

ジョブズは、ペプシコーラの事業担当社長をしていたジョン・スカリーに白羽の矢を立て、18か月に渡る引き抜き工作を行う。このとき彼は「このまま一生、砂糖水を売りつづけるのか、それとも世界を変えるチャンスをつかんでみる気はないのか?Do you want to sell sugar water for the rest of your life, or do you want to change the world?)」 などとスカリーを口説いた。1983年ジョン・スカリーはAppleの社長の座に就く。ジョブズとの関係は「ダイナミック・デュオ」と呼ばれるようになり、2人の関係は常に良好だった。

1984年1月にはMacintoshのデビューに立ち会い、順調に経営が進行するように思われた。しかし、1984年のクリスマスシーズンは需要の予測を大きく誤り、Macintoshの過剰在庫に悩まされることになった。この第4四半期で初の赤字を計上、従業員の5分の1にあたる人数の削減を余儀なくされた。

Appleの経営を混乱させているのはジョブズだと考えたスカリーは、1985年4月にMacintosh部門からの退任をジョブズに要求、取締役会もこれを承認した。スカリーはこれで穏便に済むと考えていたが、ジョブズはスカリーが中国に出張している間に彼をAppleから追放することを画策した。このことはジャン=ルイ・ガセーにより事前にスカリーに伝えられ、1985年5月24日の取締役会でジョブズの画策をスカリーが問い質し、ほかの取締役にスカリーとジョブズのどちらかを選ぶように告げた。取締役のほとんどはスカリーを選び、ジョブズは5月31日にAppleでの(会長職以外の)すべての業務から外された。

ジョブズは当時所有していたAppleの株を1株だけ残して約650万株をすべて売却し、NeXT社を創立した。それと同時にスカリー宛てに郵送で辞職願を提出し、会長職も辞任した。2010年の記事で、スカリーは一番後悔していることとして、ジョブズを辞任に追い込んだことを挙げている[59]

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出典:Wikipedia
2019/07/19 02:02
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