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アルブレヒト・デューラー
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1.出生
1.4.ニュルンベルクへの帰郷(1495-1505)
1495年にニュルンベルクに戻ったデューラーは、自身の作業場を持った。結婚したのは作業場が必要だったからであった。帰郷後5年間で、彼は潜在的な北部様式にイタリアで得たものを統合した。

その後の10年間にデューラーは両親を共に失っている。父は1502年に、母は1514年に亡くなった。

作業場での彼の初期の優れた作品は木版印刷で、特に宗教的なものであった。しかし1496年頃描かれた"The Mens' Bath-house"のような平信徒の描写も含んでいた。これらはそれまでのドイツ木版画の大多数よりも大きく、より複雑で比率のバランスが取れていた。

デューラー自身がすべての木版を彫ったとは考えづらい。この作業は専門の職人が行ったものであろう。しかし、彼はヴォルゲムートのアトリエでの修行時に、多くの祭壇彫刻や祭壇画を造り、木版用のデザインと彫刻の両方を行い、創作に必要な技術が何であるかと、木材彫刻士との作業の仕方を理解した。デューラーは木材に直接デザインを描くか、紙に書いたものを木材に接着させた。どちらにしても、木材を彫るときに、設計図は壊された。

彼の有名な『黙示録』の16の設計シリーズは1498年のものである。彼は『大受難伝』の最初の7つの場面も同年に製作した。少し後に、聖家族と聖人(The Holy Family and saints)に関する11のシリーズを製作した。1503-05年頃、彼は『マリアの生涯英語版』の挿絵セットの最初の17枚を製作したが、すべての製作が終わるまでに数年間を要した。これらの作品も『大受難伝』も何年もの間出版されなかったが、印刷物はかなりの数が個人的に売られた。

これと同時期に彼はエングレービングを製作するために、ビュランフランス語版を使用する今までとは異なる技術を特訓した。基本的な技術は金細工とほぼ同じなので、彼は幼少の頃、父親から技術を学ぶことが可能であった。習い始めはあまり熱心ではなかったが、1496年頃から傑作を産み出すようになった。『放蕩息子』は、数十年後にジョルジョ・ヴァザーリに絶賛された。すぐに彼はいくつかの超大作と原画を残した。特に1502年作の『ネメージス、運命の女神』、1498年作の"The Sea Monster"と1501年頃製作された『聖エウスタキウス』は、きめ細かい背景と美しい動物が描かれていた。彼は数多く聖母マリアの宗教的な単身像や喜劇的な農民の姿の小風景の作品を造った。印刷物なので持ち運びができた。これらの創作によって数年以内にヨーロッパの主要な芸術の中心地で、デューラーは有名になった。

かつてヴェネツィアで出会った画家ヤコポ・デ・バルバリが1500年にニュルンベルクを訪れた。デューラーは遠近法解剖学、人体均衡論を彼から学んだと述べている。バルバリは知っていることすべてを語りたがらなかったので、デューラーは独力で研究を開始した。それは彼の生涯にわたる関心事であった。人体の比率を描く実験が、デューラーの現存している一連の絵画で見ることができる。1504年に製作された有名な『アダムとイヴ』のエングレービングは、ビュランを使用し、肉体の表面に質感を持たせている。この作品がデューラーのフルネームが署名された唯一のエングレービング作品である。

デューラーは特に絵画やエングレービングによる銅版画の下書きを数多く残している。最も有名なものは1508年に作成され、現在はウィーンのアルベルティーナ美術館に所蔵されている『祈る手』である。それはヘラー祭壇画の十二使徒を調査したものである。彼は水彩ガッシュの絵も作り続けていた。それらは1502年作の『野うさぎ 』や1503年作の『芝草』などに代表され、数多くの牧草地での優雅な静物や動物画を含んでいた。

1498年木版画集「黙示録」にて成功をおさめた。

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(1.3.初めてのイタリア旅行(1494-1495))
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(1.5.二度目のイタリア旅行(1505-1507))
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出典:Wikipedia
2019/12/31 14:30
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