ヴャチェスラフ・モロトフ
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1.生涯
1.6.スターリンの死後
スターリンの死は新たな政治状況を作り出した。その日のうちにモロトフは外相に復帰した。またポリーナは収容所から解放され、その後も多くの囚人が釈放された。しかし改革に舵を切ったベリヤと対立し、ニキータ・フルシチョフの提案するベリヤの逮捕と処刑に積極的に賛成した。ドミトリー・シェピーロフの回想ではフルシチョフがベリヤの解任をほのめかした際には「除去するだけでいいのか」と答えたという。

しかしその後の集団指導体制の中で、スターリン主義に固執するモロトフら保守派は孤立を深めていった。1956年2月にフルシチョフがスターリン批判を行い、非スターリン化を進めるとモロトフらは反発した。またスターリンの故郷グルジアで暴動が発生し、「モロトフを首相に」というスローガンが唱えられた。またモロトフはユーゴスラビアとの関係正常化に反対してフルシチョフと対立し、9月に外相を解任された。10月にはハンガリーで政変が起こり、ハンガリー動乱が発生した。モロトフは軍事介入に賛成し、融和を唱えるミコヤンと対立した。

1957年6月、幹部会においてゲオルギー・マレンコフラーザリ・カガノーヴィチらとともにフルシチョフ解任の動議を提出した。しかし書記局と軍の支持を得ていたフルシチョフは中央委員会で逆襲を行った。モロトフら反フルシチョフ派は「反党グループ」であるとして政治局員から解任され、モロトフ自身は駐モンゴル大使に左遷された(反党グループ事件)。この動議は反党グループと呼ばれた人々も賛成票を投じざるを得なかったが、モロトフは棄権した。しかし反対派の多くが自己批判や謝罪を行う中、モロトフだけは意見を変えなかった。

その後、中ソ対立でモンゴルの重要性が高まると、モロトフは1960年国際原子力機関ソ連代表に左遷された。しかしフルシチョフに体制批判の書簡を送ったことで、1961年10月の党大会で「モロトフとその同類の頑迷派」は激しく批判された。モロトフは共産党から除名され、年金生活に入った。

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出典:Wikipedia
2019/05/22 22:00
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