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ロッド・スチュワート
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概要
サーロデリック・デイヴィッド・“ロッド”・スチュワートSir Roderick David "Rod" Stewart1945年1月10日 - )は、スコットランド家系のイギリスのミュージシャン。

「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第59位[1]

Q誌の選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第33位[2]

概要[編集]

1960年代後半からジェフ・ベック・グループフェイセズでの在籍を経てソロで活躍。個性的なハスキーボイスの持ち主で、そのボーカル・スタイルは一部のロック・ミュージシャンに影響を与えた。10代の頃にはプロ・サッカーの3部リーグのチームのトライアルも受けたことで知られている。ライブでは客席にサッカーボールを蹴り込むパフォーマンスが定番となっている。

近年は『ザ・グレイト・アメリカン・ソングブック』シリーズを発表し、カバー曲に取り組むシンガーとしても活動している。

2016年6月10日、英国政府によりナイト爵位が授与されることになった。大英帝国第3級勲位(CBE)が既に授与されており、音楽界への長年に渡る貢献が評価された。

経歴[編集]

下積み時代[編集]

ロバートとエルシー・スチュワート夫妻の5人兄弟の末っ子だった。彼の両親はロンドン北部で新聞販売業を営み、一家は店の2階に住んでいた。ロッドが、ロンドンのハイゲートで誕生する数分前に、ドイツV2ロケットがちょうど通りの向かいの警察署へ命中した。

墓掘り人夫などの日雇い仕事を転々とした後、彼はサッカー選手として西ロンドンを本拠とするブレントフォードFCに参加したが、わずか3週間ほどでクラブから退団。1960年代前半に、放浪の罪で追放されたスペインのフォーク歌手、ウィズ・ジョーンズのツアーに加わり、音楽の経歴が始まった。イギリスに帰国すると、バーミンガムでジミー・パウエル・アンド・ザ・ファイブ・ディメンションズにボーカリスト、ブルースハープ奏者として加入した。バンドは、パイ・レコードと契約した。彼はまた、1964年の大ヒット、ミリー・スモールの「マイ・ボーイ・ローリーポップ」のレコーディングにも参加した。

1964年にロンドンに戻ると、ロング・ジョン・バルドリーの率いるフーチ・クーチー・メンに加入した。バンドはシングル「グッド・モーニング・リトル・スクールガール」を発表したが、チャート入りしなかった。フーチ・クーチー・メンは、スチュワートとバルドリー、ジュリー・ドリスコール、ブライアン・オーガーらがメンバーで、のちにスティームパケットに発展した。スティームパケットは、1965年夏のローリング・ストーンズウォーカー・ブラザーズのツアーをサポートし、アルバムを録音し数曲にボーカリスト及びコーラスとして参加するが、それはスチュワートが1970年代に成功するまで発表されなかった。モッド・ムーブメントの後に「ロッド・ザ・モッド」の愛称を得た。

スティームパケットは1966年前半に解散し、ロッドはベリル・マースデンの率いるショットガン・エクスプレスに参加した。ショットガン・エクスプレスは、後にフリートウッド・マックを結成したミック・フリートウッドピーター・グリーン、またピーター・バーデンス(元ゼム、後にキャメル)が参加していた。ショットガン・エクスプレスは、解散直前に1枚のシングルを発表している。

ジェフ・ベック・グループ[編集]

ショットガン・エクスプレスの解散後、ジェフ・ベック率いるジェフ・ベック・グループに参加する。1968年に、最初のアルバム『トゥルース』が英米でヒットし、大規模なツアーが行われた。セカンド・アルバム『ベック・オラ』もヒットしたが、バンドは1969年末に解散した。ベックはロッドの参加でティム・ボガートカーマイン・アピスらと新バンド結成を計画したが、ロッドは参加せず、1973年にベック・ボガート・アンド・アピスとして活動することとなる。

フェイセズ[編集]

アメリカのバンド、カクタスがロッドをリード・ボーカルとして誘ったが、彼はジェフ・ベック・グループのベーシスト、ロン・ウッドに誘われてスティーヴ・マリオットの脱退したスモール・フェイセスへ参加することになった。同バンドは、2人の加入と共にバンド名をフェイセズ[3]に変更した[4]。フェイセズはアルコールに強く、酔いどれバンドとしても知られた。また、ソロ・アルバムの契約にサインし、ソロ歌手としてマーキュリー・レコードと、そしてフェイセズとしてワーナー・ブラザースと2つのレコード会社を表す掛け持つこととなる。1969年に発表された最初のソロ・アルバム『ロッド・スチュワート・アルバム』は、リリース当時は目立ったヒットとならなかったが、1972年にはアメリカのBillboard 200で139位を記録した[5]

フェイセズのデビュー・アルバム『ファースト・ステップ[6]は1970年前半に発表され、その音楽スタイルはローリング・ストーンズに似通っていた。アルバムは、アメリカよりもイギリスでヒットし、バンドはライブでの評判が高まった。

2ndソロ・アルバム『ガソリン・アレイ』をギタリスト、マーティン・クイッテントンと共に発表し、ソロ・ツアーを行った。その後、3rdソロ・アルバム『エヴリ・ピクチャー・テルズ・ア・ストーリー』が英米チャート共に同時1位という、史上5度目となる快挙を成し遂げる。また、シングル・カットされた「リーズン・トゥ・ビリーヴ/マギー・メイ」も大ヒット(全英1位/Billboard Hot 100で全米1位[7])を記録する。「マギー・メイ」は当初シングルB面扱いだったが、同曲を気に入ったラジオDJ達が後にA面扱いで紹介した(プレス上はB面のままである)。

フェイセズとしても3枚目のアルバム『馬の耳に念仏』がヒットし、「ステイ・ウィズ・ミー」が代表曲として知られるが、ロッドのソロ活動が成功するうち、バンド内に亀裂が生じることとなる。4thアルバム『ウー・ラ・ラ』ではレコーディングに参加しない楽曲まであり、フェイセズも当時のレコード会社の方針でロッドのバック・バンドのような扱いになってしまう。また、『ウー・ラ・ラ』をロッドが「完全な失敗作」などと批判する記事が掲載されたり、ソロ歌手として全米進出を目論んでいた矢先、レコード会社移籍問題で裁判になるといったトラブルも報じられた。これらが要因となり、1973年5月、ロニー・レーンが脱退。同年7月には、日本人ベーシスト、山内テツが加入する。

その後もツアーは行われ、1974年2月には大阪と東京で全4公演の来日公演も組まれた(大阪2日目はキャンセル)。しかし、ライブ・アルバムの発表を機に“ロッド・スチュワート&フェイセズ”とロッドが主体となるようクレジットが変更されたこと、フェイセズのツアーにも関わらず、セットリストの多くはロッドのソロ名義の曲となり、関係の修復は困難となった。

1975年には、ロン・ウッドがローリング・ストーンズに参加し、ツアーも敢行されたが、この年にバンドは解散した。

ソロ時代[編集]

グループ時代から並行してソロ活動を続け、「マギー・メイ」や「ユー・ウェア・イット・ウェル」などのヒットを飛ばしていた。やがてフェイセズ解散後、イギリスでの重税を逃れるため、渡米して『アトランティック・クロッシング』(1975年)を制作。ジャケット写真では、まさに大西洋を一跨ぎしようとするイラストが描かれている。スティーヴ・クロッパージェシ・エド・デイヴィスなど、有名なアメリカ人ミュージシャンが多数参加した作品で、ここから「セイリング」がヒット。『ナイト・オン・ザ・タウン』(1976年)からは「今夜きめよう」が全米で8週連続1位を記録する大ヒットとなる。

明日へのキック・オフ』(1977年)から数年は、カーマイン・アピス(ドラム)を中心としたバック・バンドを従えて活動。『スーパースターはブロンドがお好き』(1978年)は、ディスコ・ミュージックの要素を取り入れた「アイム・セクシー」のヒットもあって、全米1位に輝く。ちなみに、この「アイム・セクシー」は、ブラジルのアーティスト、ジョルジ・ベンの「タジ・マハール」に非常によく似ているため、裁判となった。裁判の結果はロッドの敗訴だった。後年、盗作である事をロッド本人が認めている。

「アイム・セクシー」を収録した『スーパースターはブロンドがお好き』は、日本のオリコンアルバムチャートでも2位まで上昇する大ヒットを飛ばし、1979年3月のソロ初の日本公演チケットは、ハガキによる抽選販売であった。会場の収容人数が合計8万人に対し、40万通を超える応募が殺到し、日本でも人気が高いことが実証された。

ブルースロックやトラッド・フォークの路線から、渡米後は楽曲が産業ロック的になり、音楽ジャーナリストやロックファンから批判を浴びた。また1980年代には、当時アパルトヘイト政策をとっていた南アフリカの「サン・シティ」で公演をするミュージシャンとして、ロッドとクイーンなどは、厳しい批判を受けた。なお、人種差別に反対するアーティストたちは1980年代半ばに、『サン・シティ』というアルバムを発表している。

1980年代は打ち込みサウンドが全盛の中、作品内でも取り入れるが、一時の勢いを失う。アルバム制作はやや緩やかになるものの、精力的なワールド・ツアーを敢行。また、旧友ジェフ・ベックの『フラッシュ』(1985年)にゲスト参加。ここで歌われた「ピープル・ゲット・レディ」(インプレッションズのカヴァー)は、その後もロッドの持ち歌となった。1981年と1984年に日本公演を果たしている。

1989年、トム・ウェイツのカバー「ダウンタウン・トレイン」が世界的に大ヒット。「アイム・セクシー」以来11年ぶりに、全米・全英両方のチャートでトップ10入りしたシングルとなった。1991年には「モータウン・ソング」「リズム・オブ・マイ・ハート」と立て続けに全米・全英でトップ10を記録し、翌1992年には、再びトム・ウェイツのカバー「トム・トラバーツ・ブルース」を全英トップ10に送り込む。

1991年3月からは、ヨーロッパから全米まで1年間に渡る『ヴァガボンド・ハート・ツアー』を敢行。ヨーロッパでは、60公演以上のチケットが完売、アメリカでも動員・売上記録25週連続1位を記録する過去最大規模となった。一方、1992年には8年振りの来日公演が予定に組み込まれていたが、当時の妻であるレイチェル・ハンターが出産を間近に控えていたため、残りの日程をキャンセル。ツアーは打ち切りとなった。

1993年2月、フェイセズ時代の盟友ロン・ウッドと共にMTVアンプラグドに出演。その時の演奏は、同年にはライブ・アルバム『アンプラグド』としてリリースされた(2009年にはボーナス・トラックを2曲追加、初映像化となるDVD付きのデラックス・エディションとして再発)。全英・全米で2位、日本では7位。特に全米では5週連続浮上し、セールスは300万枚を突破。一方で、全曲カバー曲で構成されたアルバム『ワンス・イン・ア・ブルー・ムーン』が制作途中でお蔵入りとなった。(2010年に通信販売限定で商品化)

同年には、ブライアン・アダムススティングと共にレコーディングした映画『三銃士』の主題歌「オール・フォー・ラヴ」が全米で3週連続1位を記録。

1994年、これまでの功績が評価されロックの殿堂入りを果たすが、授賞式の2日前にノースリッジ地震が起こり、ロッドの幼い子供達が怯えていたことから「子供達を置いていけない」という理由で授賞式を欠席した[8]。MTV「アンプラグド」の成功もあり、本来ワールドツアーは終了していたものの、1994年4月には10年振りの日本公演を敢行。海外アーティストの来日公演では異例のオーケストラは全て日本人という編成で、アンプラグドスタイルでのライブを行っている。同年12月31日、リオ・デ・ジャネイロのコパカバーナ・ビーチで開催されたフリー・コンサートでは、350万人[9]とも420万人[10]ともいわれる観客の前で歌い、ギネス世界記録に認定される[10]

2000年には甲状腺癌が判明、9か月間に渡って歌えなかったという衝撃が駆け巡ったが、アルバム『ヒューマン』のプロモーションに乗せてしまうほどで、周囲の不安を一掃した。ただ、喉の手術を機に以前ほどの高音は出せなくなったため、以後は歌唱スタイルを変更した。本作は1970年代から所属してきたワーナー・ブラザースを離れ、同レーベルの傘下であるアトランティック・レーベル移籍第1弾アルバムである。

コンスタントにヒット・シングルを放つものの、キャリア前期に多く見られた代表作を生むには至らず、特にアメリカでは長年、商業的に低迷していた。ライターズ・ブロックに陥り、1990年代には楽曲のストックがほとんどなく、いくつかのオリジナル曲とカバー曲で構成されたアルバムを発表していた。

2002年、アトランティック・レーベルを離れ、クライヴ・デイヴィスが設立したJ RECORDSに移籍し、新境地の開拓を図る。2002年から2005年にかけては、スタンダード・ナンバーをカバーした『ザ・グレイト・アメリカン・ソングブック』シリーズ4作が全米だけで830万枚の大ヒット。全世界で2000万枚以上のセールスを記録。2004年の『ザ・グレイト・アメリカン・ソングブックVol.3』は、自身25年振りとなる全米1位を達成し[11]第47回グラミー賞の"最優秀トラディショナル・ポップ・アルバム"部門を受賞して通算13度目のノミネートで待望の初受賞となり[12]、復活を果たした。

当初、このシリーズは3部作で完結と言われていたが、このVol.3の大ヒットもあり、最終的にVol.5まで発表した。2006年にはロック回帰を宣言したカバー・アルバム『グレイト・ロック・クラシックス』が再び全米1位を記録。2007年7月12日、ロンドン・バッキンガム宮殿で大英帝国第3級勲位(CBE)が授与された。

2008年、カバーシリーズの続編となるソウル・アルバムの制作が進行していたが、これまで二人三脚で歩んでいたクライヴ・デイヴィスがクリスマス・アルバムの制作を提案。これをロッド側が固辞し、ニュー・アルバムの制作が見送りとなった。その代わりに、ベスト・アルバム『スーパースター・ストーリー〜ザ・ベスト・オブ・ロッド・スチュワート〜SOME GUYS HAVE ALL THE LUCK』(邦題:)に切り替わったという経緯がある。

2009年3月、13年振りとなる来日公演が実現。4公演とこれまでで最も少ない公演数ではあったが、日本武道館の初日公演が完売となり、各地で盛り上がりを見せた。また、来日記念盤として代表作のCDがマーキュリー、ワーナー、BMGの3社から紙ジャケット仕様でリイシューされた。

2009年4月21日、ロサンゼルスで行われたジェフ・ベックのライブに飛び入りで登場し、「ピープル・ゲット・レディ」「迷信嫌い」を披露。

2009年秋、前年に見送りとなったソウル・アルバムが『ソウルブック』としてようやく発表になった(日本版は12月発売)。また、マーキュリー/ワーナー期の楽曲の別テイクや、レコーディングされながら未発表だった秘蔵音源が多数発掘された。音源の一部はすでにBOXセット『ロッド・スチュワート セッションズ 1971-1998』としてリリースされており、CDで発表されなかったアウトテイクは各アルバムのボーナストラックとしてネット配信された。

2010年は、イギリスを中心とした春から夏にかけてのワールド・ツアーを敢行。一部でフェイセズのリユニオンが取り上げられているが、『ソウルブック』のプロモーションとコンサート活動に専念するため、ロッドの参加は見送られた。また、『グレイト・アメリカン・ソングブック』シリーズの完結を公式に宣言。その最終章となるVol.5を発表した。

2011年からはスティーヴィー・ニックスとのジョイント・ライヴや、ラスベガスを中心としたコンサート活動を行う。2012年6月、ユニバーサルミュージック内のVerve Recordsと多数のアルバムリリースを含めた契約を交わす。同年秋には、自伝を海外で出版(翌2013年、日本でも発売)。また、キャリア初のクリスマス・アルバム『メリー・クリスマス、ベイビー』を発表。製作総指揮をデイヴィッド・フォスターが務め、全米で初登場3位を記録。全英では初登場2位を記録した。本作と同時進行で、ロック・アルバムを制作中であることがアナウンスされ、アルバムには新曲がダウンロードできるミュージック・カードが封入された。2013年春には、自身15年振りとなる作詞・作曲のオリジナルナンバーを多数含むアルバム『タイム〜時の旅人〜』を発表。1979年の『グレイテスト・ヒッツ』以来、自身34年振りとなる全英チャート1位を獲得した。これは英国の音楽史上においてボブ・ディランに次ぐ記録で、イギリス人ミュージシャンではトム・ジョーンズの32年を上回る最長記録である[13]

2015年、前作『タイム〜時の旅人〜』に続く、自作曲を中心としたアルバム『アナザー・カントリー』を発表。ほとんどの楽曲は自宅でレコーディングされた。

2016年6月10日、英国政府によりナイト爵位が授与されることが発表された。

2018年、『ブラッド・レッド・ローゼズ』を発表。全英では自身5年振りとなる初登場1位を記録。一方、アメリカでは定期的なライブを除き大規模なプロモーションは行われず、スタジオ・アルバムとしては1970年代以降では最も低いチャート・アクションとなった。

ソロ時代[編集]

グループ時代から並行してソロ活動を続け、「マギー・メイ」や「ユー・ウェア・イット・ウェル」などのヒットを飛ばしていた。やがてフェイセズ解散後、イギリスでの重税を逃れるため、渡米して『アトランティック・クロッシング』(1975年)を制作。ジャケット写真では、まさに大西洋を一跨ぎしようとするイラストが描かれている。スティーヴ・クロッパージェシ・エド・デイヴィスなど、有名なアメリカ人ミュージシャンが多数参加した作品で、ここから「セイリング」がヒット。『ナイト・オン・ザ・タウン』(1976年)からは「今夜きめよう」が全米で8週連続1位を記録する大ヒットとなる。

明日へのキック・オフ』(1977年)から数年は、カーマイン・アピス(ドラム)を中心としたバック・バンドを従えて活動。『スーパースターはブロンドがお好き』(1978年)は、ディスコ・ミュージックの要素を取り入れた「アイム・セクシー」のヒットもあって、全米1位に輝く。ちなみに、この「アイム・セクシー」は、ブラジルのアーティスト、ジョルジ・ベンの「タジ・マハール」に非常によく似ているため、裁判となった。裁判の結果はロッドの敗訴だった。後年、盗作である事をロッド本人が認めている。

「アイム・セクシー」を収録した『スーパースターはブロンドがお好き』は、日本のオリコンアルバムチャートでも2位まで上昇する大ヒットを飛ばし、1979年3月のソロ初の日本公演チケットは、ハガキによる抽選販売であった。会場の収容人数が合計8万人に対し、40万通を超える応募が殺到し、日本でも人気が高いことが実証された。

ブルースロックやトラッド・フォークの路線から、渡米後は楽曲が産業ロック的になり、音楽ジャーナリストやロックファンから批判を浴びた。また80年代には、当時アパルトヘイト政策をとっていた南アフリカの「サン・シティ」で公演をするミュージシャンとして、ロッドとクイーンなどは、厳しい批判を受けた。なお、人種差別に反対するアーティストたちは1980年代半ばに、「サン・シティ」というアルバムを発表している。

1980年代は打ち込みサウンドが全盛の中、作品内でも取り入れるが、一時の勢いを失う。アルバム制作はやや緩やかになるものの、精力的なワールド・ツアーを敢行。また、旧友ジェフ・ベックの『フラッシュ』(1985年)にゲスト参加。ここで歌われた「ピープル・ゲット・レディ」(インプレッションズのカヴァー)は、その後もロッドの持ち歌となった。1981年と1984年に日本公演を果たしている。

1989年、トム・ウェイツのカバー「ダウンタウン・トレイン」が世界的に大ヒット。「アイム・セクシー」以来11年ぶりに、全米・全英両方のチャートでトップ10入りしたシングルとなった。1991年には「モータウン・ソング」「リズム・オブ・マイ・ハート」と立て続けに全米・全英でトップ10を記録し、翌1992年には、再びトム・ウェイツのカバー「トム・トラバーツ・ブルース」を全英トップ10に送り込む。

1991年3月からは、ヨーロッパから全米まで1年間に渡る『ヴァガボンド・ハート・ツアー』を敢行。ヨーロッパでは、60公演以上のチケットが完売、アメリカでも動員・売上記録25週連続1位を記録する過去最大規模となった。一方、1992年には8年振りの来日公演が予定に組み込まれていたが、当時の妻であるレイチェル・ハンターが出産を間近に控えていた為、残りの日程をキャンセル。ツアーは打ち切りとなった。

1993年2月、フェイセズ時代の盟友ロン・ウッドと共にMTVアンプラグドに出演。その時の演奏は、同年にはライブ・アルバム『アンプラグド』としてリリースされた(2009年にはボーナス・トラックを2曲追加、初映像化となるDVD付きのデラックス・エディションとして再発)。全英・全米で2位、日本では7位。特に全米では5週連続浮上し、セールスは300万枚を突破。一方で、全曲カヴァー曲で構成されたアルバム『ワンス・イン・ア・ブルー・ムーン』が制作途中でお蔵入りとなった。(2010年に通信販売限定で商品化)

同年には、ブライアン・アダムススティングと共にレコーディングした映画『三銃士』の主題歌「オール・フォー・ラヴ」が全米で3週連続1位を記録。

1994年、これまでの功績が評価されロックの殿堂入りを果たすが、授賞式の2日前にノースリッジ地震が起こり、ロッドの幼い子供達が怯えていたことから「子供達を置いていけない」という理由で授賞式を欠席した[14]。MTV「アンプラグド」の成功もあり、本来ワールドツアーは終了していたものの、1994年4月には10年振りの日本公演を敢行。海外アーティストの来日公演では異例のオーケストラは全て日本人という編成で、アンプラグドスタイルでのライブを行っている。同年12月31日、リオ・デ・ジャネイロのコパカバーナ・ビーチで開催されたフリー・コンサートでは、350万人[15]とも420万人[10]ともいわれる観客の前で歌い、ギネス世界記録に認定される[10]

2000年には甲状腺癌が判明、9か月間に渡って歌えなかったという衝撃が駆け巡ったが、アルバム『ヒューマン』のプロモーションに乗せてしまうほどで、周囲の不安を一掃した。ただ、喉の手術を機に以前ほどの高音は出せなくなった為、以後歌唱スタイルを変更した。本作は70年代から所属してきたワーナー・ブラザースを離れ、同レーベルの傘下であるアトランティック・レーベル移籍第1弾アルバムである。

コンスタントにヒット・シングルを放つものの、キャリア前期に多く見られた代表作を生むには至らず、特にアメリカでは長年、商業的に低迷していた。ライターズ・ブロックに陥り、1990年代には楽曲のストックがほとんどなく、いくつかのオリジナル曲とカヴァー曲で構成されたアルバムを発表していた。

2002年、アトランティック・レーベルを離れ、クライヴ・デイヴィスが設立したJ RECORDSに移籍し、新境地の開拓を図る。2002年から2005年にかけては、スタンダード・ナンバーをカヴァーした『ザ・グレイト・アメリカン・ソングブック』シリーズ4作が全米だけで830万枚の大ヒット。全世界で2000万枚以上のセールスを記録。2004年の『ザ・グレイト・アメリカン・ソングブックVol.3』は、自身25年振りとなる全米1位を達成し[16]第47回グラミー賞の"最優秀トラディショナル・ポップ・アルバム"部門を受賞して通算13度目のノミネートで待望の初受賞となり[17]、復活を果たした。

当初、このシリーズは3部作で完結と言われていたが、このVol.3の大ヒットもあり、最終的にVol.5まで発表した。2006年にはロック回帰を宣言したカヴァー・アルバム『グレイト・ロック・クラシックス』が再び全米1位を記録。2007年7月12日、ロンドン・バッキンガム宮殿で大英帝国第3級勲位(CBE)が授与された。

2008年、カヴァーシリーズの続編となるソウル・アルバムの制作が進行していたが、これまで二人三脚で歩んでいたクライヴ・デイヴィスがクリスマス・アルバムの制作を提案。これをロッド側が固辞し、ニュー・アルバムの制作が見送りとなった。その代わりに、ベスト・アルバム『スーパースター・ストーリー〜ザ・ベスト・オブ・ロッド・スチュワート〜 (Some Guys Have All The Luck)』に切り替わったという経緯がある。

2009年3月、13年振りとなる来日公演が実現。4公演とこれまでで最も少ない公演数ではあったが、日本武道館の初日公演が完売となり、各地で盛り上がりを見せた。また、来日記念盤として代表作のCDがマーキュリー、ワーナー、BMGの3社から紙ジャケット仕様でリイシューされた。

2009年4月21日、ロサンゼルスで行われたジェフ・ベックのライブに飛び入りで登場し、「ピープル・ゲット・レディ」「迷信嫌い」を披露。

2009年秋、前年に見送りとなったソウル・アルバムが『ソウルブック』としてようやく発表になった(日本版は12月発売)。また、マーキュリー/ワーナー期の楽曲の別テイクや、レコーディングされながら未発表だった秘蔵音源が多数発掘された。音源の一部はすでにBOXセット『ロッド・スチュワート セッションズ 1971-1998』としてリリースされており、CDで発表されなかったアウトテイクは各アルバムのボーナストラックとしてネット配信された。

2010年は、イギリスを中心とした春から夏にかけてのワールド・ツアーを敢行。一部でフェイセズのリユニオンが取り上げられているが、『ソウルブック』のプロモーションとコンサート活動に専念するため、ロッドの参加は見送られた。また、『グレイト・アメリカン・ソングブック』シリーズの完結を公式に宣言。その最終章となるVol.5を発表した。

2011年からはスティーヴィー・ニックスとのジョイント・ライブや、ラスベガスを中心としたコンサート活動を行う。2012年6月、ユニバーサルミュージック内のヴァ―ヴ・レコードと多数のアルバム・リリースを含めた契約を交わす。同年秋には、自伝を海外で出版(翌2013年、日本でも発売)。また、キャリア初のクリスマス・アルバム『メリー・クリスマス、ベイビー』を発表。製作総指揮をデイヴィッド・フォスターが務め、全米で初登場3位を記録。全英では初登場2位を記録した。本作と同時進行で、ロック・アルバムを制作中であることがアナウンスされ、アルバムには新曲がダウンロードできるミュージック・カードが封入された。2013年春には、自身15年振りとなる作詞・作曲のオリジナルナンバーを多数含むアルバム『タイム〜時の旅人〜』を発表。1979年の『グレイテスト・ヒッツ』以来、自身34年振りとなる全英チャート1位を獲得した。これは英国の音楽史上においてボブ・ディランに次ぐ記録で、イギリス人ミュージシャンではトム・ジョーンズの32年を上回る最長記録である[18]

2015年、前作『タイム〜時の旅人〜』に続く、自作曲を中心としたアルバム『アナザー・カントリー』を発表。ほとんどの楽曲は自宅でレコーディングされた。

2016年6月10日、英国政府によりナイト爵位が授与されることが発表された。

2018年、『ブラッド・レッド・ローゼズ』を発表。全英では自身5年振りとなる初登場1位を記録。一方、アメリカでは定期的なライブを除き大規模なプロモーションは行われず、スタジオ・アルバムとしては1970年代以降では最も低いチャート・アクションとなった。

2019年9月27日、ロサンゼルスのハリウッド・ボウルで行われた公演のアンコールで、ジェフ・ベックと10年振りに共演、5曲を披露した。一夜限りのパフォーマンスになる事が春からアナウンスされていた。11月には数々のヒット曲をロイヤル・フィル・ハーモニー管弦楽団によるリアレンジ、新録のナンバーも収録した『ロッド・スチュワート ウィズ・ロイヤル・フィル・ハーモニー管弦楽団』を発表。

また2020年2月18日英国で開催されたBrit Awards 2020で、ロッド・スチュワートがロニー・ウッド、ケニー・ジョーンズと共演しStay with me をプレイした。

私生活[編集]

「すらりとしたブロンド(の女性)が好き」と公言しているとおり、女性遍歴が華やかで、これまで4人の女性との間に8人の子供を授かっている。1980年代に俳優ジョージ・ハミルトンの元妻であるアラナ・ハミルトンと最初の結婚、1990年代にはレイチェル・ハンターと結婚したがいずれも離婚し、現在はモデルのペニー・ランカスターを妻に持つ。

1970年代後半から80年代初めは『スーパースターはブロンドがお好き』が世界的にヒットした頃で、派手なファッションが話題を呼び、さらには数々のゴシップ記事が紙面を賑わしていた。当時、強い注目を浴びていたことが分かるが、自身は「少し悔いが残る時期」と語っている。

元フェイセズのメンバーだったロニー・レーンが重病を患った際には、ロン・ウッドと膨大な医療費を人知れず払い続けていたこと、ロッドの才能をいち早く見抜いたブルース・シンガーのロング・ジョン・ボールドリーの医療費も負担していたことが、オフィシャル・バイオグラフィーに記載されている。

2010年、約30年間を過ごしたロサンゼルスに別れを告げ、本国イギリスに帰国した。また、2010年には8人目の子供の父親となっている(当時66歳)[19]

趣味はサッカー観戦。セルティックFCの熱狂的サポーターであり、ライブでユニフォームを着ることもある。セルティックFCのロゴを象ったオフィシャルグッズも制作されている。鉄道模型の大ファンでもあり、ビバリーヒルズの自宅には139平方メートルにもなる鉄道模型レイアウトが設置されているという。制作したレイアウトはモデル・レイルローダー誌上で何度か取り上げられている。[20]

日本での影響[編集]

西城秀樹は、フェイセズの来日公演を鑑賞するなど、早くから影響を受けていた。また、ロッドがライブでマイクパフォーマンスがアルミ製のマイクスタンドであることを知り、自らのステージに取り入れた。ソロ初来日公演の際には、雑誌のインタビューで対談している。また、自身の大阪球場コンサートのエンディングとして長年に渡って「セイリング」を使用。ハードロック評論家・伊藤政則は西城が「沢田研二さんがミック・ジャガーに入れ込んでいたので、僕はロッド・スチュワートを目指すことにした」と語ったことを証言している[21]。なお、西城がファンだったのは、ジャニス・ジョプリン、ビートルズ、ベンチャーズ、ジミ・ヘンドリクスなどである。世良公則はフェイセズ時代からのロッド通としてファンの間では知られており、ラジオ番組や雑誌などに度々コメントを寄せている。

1970年代後半、沢田研二は、「ホット・レッグス」や「アイム・セクシー」の日本語版をライブでカバーした。バンド活動を経てソロでブレイクした点も共通していることから、テレビ番組等では『日本のロッド・スチュワート』と評された時期もあったが、西城秀樹の証言の通り、沢田が影響を受けていたのはミック・ジャガーであって、ロッドではない。グラム・ロックの影響も受けていた。

矢沢永吉も以前から影響を受けていたが、1997年にロンドンで行われた世界的な音楽イベント「SONGS&VISIONS」に唯一のアジア代表として出場し競演したことで、さらに意識を強めた。また、2009年の日本武道館公演にも訪れている。

徳永英明の「VOCALIST」シリーズは、ロッドのカバー・シリーズの成功がきっかけだったことが「ソウルブック」のブックレットに記載されている。KOKIAは「グレイト・アメリカン・ソング・ブック」シリーズから3曲を取り上げた。布袋寅泰は、カバー・アルバム「MODERN TIMES ROCK'N'ROLL」で「セイリング」を取り上げた。浅川マキは、ロッドのキャリア初期作品に思い入れがあり、ライブで「ガソリン・アレイ」等をカバーした。TM NETWORK宇都宮隆もファンを公言している。B'z稲葉浩志もロッドの歌声に影響を受けたといい、ロッドの声に憧れお酒うがいをしたことがあると述べている[22]

日本公演[編集]

1979年
1981年
1984年
1994年
1996年
2009年

テレビCM [編集]

※日本国内で放映されたCMの一部のみ記述。

スバル レガシィ1993年- 1995年)自身の代表曲、"People Get Ready"や"Sailing"をBGMに、ヨーロッパの草原で撮影されている。最後にロッドが「LEGACY,MY 1st.」と言う締め方になっていた。

ディスコグラフィ[編集]

ジェフ・ベック・グループ[編集]

トゥルース』 - Truth (1968年)
ベック・オラ』 - Beck Ola (1970年)

フェイセズ[編集]

ファースト・ステップ』 - First Step (1970年)
ロング・プレイヤー』 - Longplayer (1971年)
馬の耳に念仏』 - A nod's as good as a wink to a blind horse (1971年)
ウー・ラ・ラ』 - Ooh la la (1973年)
ロッド・スチュワート&フェイセズ=ライヴ』 - Coast to Coast: Overture and Beginners (1974年) ※ライブ・アルバム

ソロ・アルバム[編集]

ロッド・スチュワート・アルバム』 - An Old Raincoat Won't Ever Let You Down (The Rod Stewart Album) (1969年)
ガソリン・アレイ』 - Gasoline Alley (1970年)
エヴリ・ピクチャー・テルズ・ア・ストーリー』 - Every Picture Tells a Story (1971年) ※「マギー・メイ」収録
ネヴァー・ア・ダル・モーメント』 - Never a Dull Moment (1972年)
スマイラー』 - Smiler (1974年)
アトランティック・クロッシング』 - Atlantic Crossing (1975年)
ナイト・オン・ザ・タウン』 - A Night on the Town (1976年)
明日へのキック・オフ』 - Foot loose & Fancy Free (1977年)
スーパースターはブロンドがお好き』 - Blondes Have More Fun (1978年)
『パンドラの匣』 - Foolish Behaviour (1980年)
トゥナイト・アイム・ユアーズ』 - Tonight I'm Yours (1981年)
アブソルートリー・ライヴ』 - Absolutely Live (1982年)
『ボディ・ウィッシーズ』 - Body Wishes (1983年)
『カムフラージュ』 - Camouflage (1984年)
ロッド・スチュワート』 - Every Beat of My Heart (1986年)
アウト・オブ・オーダー』 - Out of Order (1988年)
『ヴァガボンド・ハート』 - Vagabond Heart (1991年)
『リード・ボーカリスト』 - Lead Vocalist (1993年)
アンプラグド』 - Unplugged... and Seated (1993年) ※2009年にコレクターズ・エディションとしてDVD付き仕様版が発売された。
ユア・ザ・スター』 - A spanner in the Works (1995年)
『ザ・ニュー・ボーイズ』 - When We Were the New Boys (1998年)
『ヒューマン』 - Human (2001年)
ザ・グレイト・アメリカン・ソングブック』 - Great American Songbook: It Had to Be You (2002年)
ザ・グレイト・アメリカン・ソングブックVol.2』 - Great American Songbook: Vol.2: As Time Goes By (2003年)
『ザ・グレイト・アメリカン・ソングブックVol.3』 - Great American Songbook: Vol.3: Stardust (2004年)
ザ・グレイト・アメリカン・ソングブックVol.4』 - Great American Songbook: Vol.4: Thanks for the Memory (2005年)
グレイト・ロック・クラシックス』 - Still The Same... Great Rock Classics of Our Time (2006年)
ソウルブック』 - Soulbook (2009年)
『ザ・グレイト・アメリカン・ソングブックVol.5』 - Great American Songbook: Vol.5: Fly to the Moon (2010年)
『メリー・クリスマス、ベイビー』 - Merry Christmas, Baby (2012年)
タイム〜時の旅人〜』 - Time (2013年)
アナザー・カントリー』 - Another Country (2015年)
ブラッド・レッド・ローゼズ』 - Blood Red Roses (2018年)

関連項目 [編集]

ブルース・ロック
サム・クック
トラッド
ディスコ

脚注[編集]

出典[編集]

McLagan, Ian (2011). All the Rage. London: Billboard Books. . 
Nelson, Paul; Bangs, Lester (1981). Rod Stewart. New York: Delilah Books. . 
Ewbank, Tim (2005). Rod Stewart: The New Biography. Citadel Press. . 
Gray, John (1992). Rod Stewart: The Visual Documentary. London: Omnibus Press. . 

外部リンク[編集]

Official Website (英語)
Official Fan Club Site
ロッド・スチュワート UNIVERSAL MUSIC JAPAN
ロッド・スチュワート Sony Music Online
Rod Stewart / ロッド・スチュワート アーティストトップ ワーナーミュージック
ロッド・スチュワート - Myspace
出典:Wikipedia
2020/02/21 23:01
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