ロンドン
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1.歴史
1.3.中世
5世紀初期にはローマは事実上、ロンドンを放棄している。6世紀からアングロ・サクソン人がルンデンヴィックで知られる開拓地がローマ人の古い街の僅かに西に築かれ、これは現在のコヴェント・ガーデンやロンドンで、人口は10,000人から12,000人程度に達した。
ただし、宗教的な中心地はカンタベリーであり、この側面でだけはロンドンは後塵を拝することになる。フリート川の河口には漁業や交易で栄えた港があったと思われるが、ヴァイキングからの防衛上の見地から、かつてのローマ人の市街壁を用いるため、東のロンディニウムへの移動を強いられた[41]ヴァイキングの襲撃は増加の一途をたどり、886年アルフレッド大王デーン人の指導者であるガスラムとウェドモーアの和議を締結するまで続いた[42]。アングロ・サクソン人のルンデンヴィックLundenwicは「旧市街」を意味するエアルドヴィックEaldwicと改称され、現在のシティ・オブ・ウェストミンスターオールドウィッチにその名を残している[43]10世紀、すでに国内最大の都市となり、貿易面でも最も重要な都市となっていたロンドンは、イングランド統一によりさらに政治面での重要性も高めた。さらにこの頃、ウェセックスの伝統的な中心地であるウィンチェスターとの競合にも直面した。

11世紀エドワード懺悔王ウェストミンスター寺院を建設し、シティより少し上流の地であるウェストミンスターに居住した。この見地に立てば、ウェストミンスターはシティの政府機能を担う立場を着実に奪っていったといえる[44]1066年クリスマスの日、ヘイスティングズの戦いで勝利し、イングランドを征服したノルマンディ公ギヨーム2世は1066年のクリスマスの日に、ウェストミンスター寺院イングランド王ウィリアム1世として即位した[45]。ウィリアム1世はホワイト・タワー(後のロンドン塔)をシティの南東に建設し、市民を威圧した[46]1097年ウィリアム2世はウェストミンスター寺院に程近い場所に、ウェストミンスター宮殿の基礎となるウェストミンスター・ホールを建設した[47][48]12世紀、それまで国中を移動していた宮廷に同伴していた中央政府の各機関は次第に一箇所に固定化し、規模を増大させ、洗練されていった。多くの場合、政府機関はウェストミンスターに集中したが、国庫の機能はロンドン塔に置かれた。ウェストミンスターが首都として政府機能を果たす一方、シティは自治機能を有するイングランド最大の商業都市に発展していた。シティはその経済力を背景として、12-13世紀に市長を選出する権利や独自の法廷を持つ権利を獲得し、14世紀半ばからは市参事会を選出し、王権から独立した高度な自治都市としての独立を保持した。人口は1100年に18,000人、1300年までには100,000人程にまで成長していた[49]

14世紀半ばにはペストが発生し、人口は3分の1程度減少した。1381年ワット・タイラーの乱が発生した[50]

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出典:Wikipedia
2018/11/16 20:30
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