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ルイセンコ論争
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4.他国への影響
東側諸国の多くの国々はルイセンコ主義を公的な「新しい生物学」として同様に受け入れた。しかしながら、ルイセンコ主義の受容は共産圏諸国において一様ではなかった。ポーランドでは、ヴァツワフ・ガイェヴスキーを除く[12]全ての遺伝学者がルイセンコ主義に従った。ガイェヴスキーは学生との接触が許されなかったにもかかわらず、ワルシャワ植物園での科学研究の継続が許された。ルイセンコ主義は1956年から急速に排斥され[12]、現代的遺伝学の研究部門が設立された。これらには1958年にワルシャワ大学で始まった、ガイェヴスキーを長とする初の遺伝学科が含まれる。

チェコスロバキアは1949年にルイセンコ主義を採用した。ヤロスラフ・ジージェネツキー(Jaroslav K???eneck?、1896年-1964年)はルイセンコ主義に反対した著名なチェコスロバキアの遺伝学者の一人であり、講義でルイセンコ主義を批判した1949年に「資本主義体制のために働き、自身を労働者階級よりも上位であると考え、人民の民主的秩序に敵対した」として農業大学を解雇され、1958年に投獄された[13]。1963年、ジージェネツキーはブルノのモラビア博物館に新たに設立されたグレゴール・メンデル部門の長に任命された。ブルノは、メンデルが遺伝的形質に関する初期の実験を続け、メンデルの法則を立てた都市である。

ドイツ民主共和国(東ドイツ)では、ルイセンコ主義は一部の大学で教えられていたものの、数名の科学者(例えば、遺伝学者でルイセンコ主義の激しい反対派であったハンス・シュトゥッベ)の活動によって科学に対しては非常に小さな影響しか及ぼさず、西ベルリンの研究機関との境界も開かれていた。にもかかわらず、ルイセンコ主義的理論は1964年にニキータ・フルシチョフが辞任するまで教科書に記載されていた[14]

ルイセンコ主義は1949年から1956年まで中国の科学を支配した。毛沢東大躍進政策の中でルイセンコの学説を採用し、数多くの餓死者を出した。この時期、遺伝学のシンポジウムではルイセンコ主義の反対派はこの理論を自由に批判し、メンデル遺伝学を主張することは許された[15]。シンポジウムの会議録において、談?驍ヘ「ソ連がルイセンコ主義の批判を始めて以降、我々も恐れずに彼を批判してきた」と述べたと引用されている[15]。しばらくの間、両方の学派が共存していたが、ルイセンコ主義者の影響は数年の間大きなものとして残り続けた[15]

1947年に日本の学界にも導入されルイセンコの学説を擁護する学者があらわれ、ルイセンコの提唱した低温処理を利用するヤロビ農法が寒冷地の農家に広まった。

朝鮮民主主義人民共和国でも、金日成の指導の下にルイセンコ学説を利用した主体農法が実施されたが、土地の急速な栄養不足におちいり、これに天候不良が重なることで1990年代の食糧不足につながった。

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出典:Wikipedia
2019/10/15 13:30
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