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リエージュ
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2.歴史
2.2.中世後半から17世紀
中世後半となると、何世紀にも渡り、リエージュの戦略的な地位の上昇のため、軍事的な目標となったり、反乱が頻繁に発生したりした。そのため、比較的早くから、都市の西側を見渡すことが可能な急な丘の上に城が建築された。

1345年に、リエージュの市民は、当時の統治者であった司教君主ラ・マルクのエンゲルベルト(Engelbert de la Marck)に反乱を起こし、軍勢を都市の近くで破った。ブルゴーニュからの支配に対する反乱の後、1468年にフランスのルイ11世と、ヴァロワ=ブルゴーニュ家シャルル突進公は、奇襲の成功とその後の戦闘により、リエージュを占領し、都市を大きく破壊した。リエージュは、公式には神聖ローマ帝国の一部であった。1477年以後、都市はハプスブルク家の、1555年以降はスペイン・ハプスブルク家の支配を受けた。しかし、実務的な支配はその司教君主が行っていた。ラ・マルクのエラール(Erard de la Marck, 1506年 - 1538年)の統治は、リエージュにおけるルネッサンスの発生と同時期であった。対抗改革の間に、リエージュの教区は分割され、次第に宗教的な国家としてのその役割を失った。17世紀には、司教君主がバイエルンヴィッテルスバッハ家からやって来た。彼らは、ケルンと神聖ローマ帝国の北にある他の司教領を統治した。この時期になると、周囲の豊富な地下資源に支えられ、鉄の精錬や金属加工が盛んになった。当時の大商人ジャン・クルティウスは、火薬明礬(みょうばん)を輸出して巨益をあげている。

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出典:Wikipedia
2019/12/12 15:31
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