一家は東部から西部へ転々として父は大工から農夫、トロリーバスの運転手と職を変え、住所を変えながらやがて、1922年に母の実家の近くのウィッティアに引っ越し、雑貨屋兼八百屋兼ガソリンスタンドを始める[4]。リチャードが生まれる頃はウィッティアに落ち着く前のヨーバリンダでレモン農園を経営して失敗していた。
ニクソンは回顧録などで幼少期を振り返って「貧しかったが幸せだった」と語っているが、ウィッティアでは父の店の経営は軌道に乗り、しかも母の実家が裕福であったことから、ピアノやヴァイオリンを習う余裕もあるなど、当時のアメリカの平均的な家庭と比べて決して貧しいものではなかった[5]。しかしやがて長男と四男の病気が一家の家計に重くのしかかり、父は店の土地半分を売らなければならなくなる[6]。10歳の時には、ジャガイモの選別、野菜の配達、ガソリンスタンドのポンプ押しをして、やがて店の野菜主任そして経理主任をこなすようになった[7]。
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