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ヨーゼフ・ゲッベルス
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1.生涯
1.1.前半生

生い立ち[編集]


1897年10月29日ドイツ帝国プロイセン王国ライン州ドイツ語版に属する人口3万人の小都市ライトドイツ語版のオーデンキルヒェナー通り(Odenkirchener Stra?e)186番地で生まれた[5]。ライトはミュンヘン=グラートバッハ(現在のメンヒェングラートバッハ)と川を挟んで隣り合う双子都市で、主要産業はミュンヘングラートバッハと同じく織物だった[6]。宗教はローマ・カトリックが支配的であり、ゲッベルスの両親も敬虔なカトリックであった[7]

父のフリードリヒ・ゲッベルス (Friedrich Goebbels) は、貧しい職工の家に生まれ、工場の事務職を経て業務支配人まで出世した人物であった。ゲッベルス家は2階建ての持ち家を有していたが、父の給料は一般の職工とそれほど変わりがなく、家計はどちらかといえば貧しかった[7]

母のマリア・カタリナ(Maria Katharina, 旧姓オーデンハウゼン (Odenhausen))はオランダ人鍛冶屋の娘でフリードリヒとの結婚前にドイツ国籍を取得した女性であった。ゲッベルスは常に母カタリナを尊敬していたが、彼女が元オランダ人である事実はひた隠しにしていた[8]

ゲッベルスは夫妻の三男であり、兄にハンスドイツ語版とコンラート (Konrad) 、姉にエリーザベト (Elisabeth)、妹にマリア (Maria) がいる[9]。両親は貧しいが敬虔なカトリック教徒であり、ゲッベルスは司祭になるよう望まれていた[10]

ゲッベルスは、4歳の時に右下腿部に小児麻痺を患い、手術することとなった。そのためゲッベルスの発育は著しく遅れ、左右で足の長さが異なり、歩行がやや不自由な身体障害者となった。ゲッベルスは生涯にわたって整形医療具に萎えた足を包み、それを後ろに引きずるように歩くことを余儀なくされた[11][12]。他の子供らが興じていたダンス・スポーツ・遊びにも少年ゲッベルスは一切参加できなかった[12]。このことは、ゲッベルスの決定的なコンプレックスとなり、彼の人格形成に大きな影響を与えた。後にゲッベルスは自作の小説『ミヒャエル』の中で自らを投影した主人公ミヒャエル・フォーアマンを通じてこの時の心情をこう告白している。「他の少年たちが走ったり、はしゃいだり、飛び跳ねたりするのを見るたび、彼は自分にこんな仕打ちをした神を恨んだ。それから自分と同じではない他の子供たちを憎んだ。さらにこんな不具合者をなおも愛そうとする自分の母を嘲笑した」[12]

友達と遊ぶことのできないゲッベルスは学校から帰ると屋根裏の自分の部屋に閉じこもって読書ばかりするようになった。特に縮刷廉価版のマイアー百科事典ドイツ語版を愛読して、幅広い知識を身につけたという。ゲッベルスの学校の成績は常に優秀であった。父フリードリヒも息子ならば「ドクトル(博士号)」取得は不可能ではないとみて、貧しい家計をやりくりして彼を1908年からギムナジウムへ通わせることにした[13]。肉体的劣等感をばねに、さらに勉学に励んだゲッベルスの成績はギムナジウムでも首位を占めることが多かった。しかし彼は人から好かれるタイプではなく、担任の教師からも嫌われていたので教師の歓心を得ようと同級生の告げ口をすることが多かったという[14]

1914年8月に第一次世界大戦が勃発すると学校は愛国心の熱狂に包まれ、多くの学生たちが出征を希望した。ゲッベルスも従軍を希望し、兵員募集に応じて兵役検査を受けたが、担当の軍医は障害者などまともに相手にせず、一瞥しただけで検査にかける事も無く兵役不適格者と認定した。その日ゲッベルスは部屋で夜通し泣きじゃくったという[15]。多くの同級生が出征していくなか、ゲッベルスはギムナジウムに取り残されて勉学を続けることとなった。兄二人は出征し、西部戦線で戦った。兄ハンスは1916年にフランス軍の捕虜となっている[16]

1917年にギムナジウムを卒業し、大学進学資格を得た。卒業成績はラテン語国語宗教が「優」であった。ギリシア語フランス語歴史地理数学物理もそれに次ぐ「良」であった[17]

大学時代[編集]


ギムナジウムを出た後、親の仕送りや家庭教師のアルバイトでやりくりして耐乏生活を送りながらボン大学に在学し、歴史と文学を専攻したが、まもなく生活困難になり、1917年9月にはカトリックの慈善団体アルベルトゥス・マグヌス協会に奨学金の貸与を申請し、許可されている。この際にゲッベルスは面接官の神父から「君は神を信じていないな」と言われたという逸話があるが、その逸話には根拠はないとされている[18]。しかし後に反カトリックとなったゲッベルスはこの時の奨学金を長く返済しようとしなかった。1930年に協会は当時国会議員になっていた彼を相手取って訴訟を起こして取り戻している[19]

ボン大学では歴史と文学を中心に学び、特にゲーテの劇作を熱心に研究した。当時のドイツでは二つか三つの大学を転々として勉学するのが通例だったが、彼は他の学生より多めに大学を転々としている。1918年夏にはフライブルク大学へ移り、授業料を免除されて古代ギリシャやローマの影響を研究する考古学者・古典芸術研究家ヴィンケルマンの研究にあたった。さらに冬にはヴュルツブルク大学へ移って古代史と近代史を学んだ[20]

この時期に起きた第一次世界大戦の敗戦やドイツ革命による混乱については、1918年11月13日に友人フリッツ・プラング(Fritz Prang)に宛てた手紙で次のように書いた。「君もまた野蛮な大衆の声よりも知識人階級の指導が要望される時が再びやってくると思わないか。我々はそういう時が一刻も早く訪れることを待望しようじゃないか。そしてその日に備えて我々の知識を辛抱強く鍛えようではないか。現下のような祖国の暗黒時代に生きることは全く辛いことだ。しかしこの辛さに耐えて生き抜くことが後日、我々に大きな利益をもたらさないと誰が言えよう。なるほどドイツは戦争に負けた。だがしかし我らの愛する祖国が、いつの日か勝利者の地位にとって代わることがないと誰が言えよう」[21]

1919年夏には再びフライブルク大学へ戻ったが、この頃からカトリックへの信仰心が薄れたとみられ、カトリック学生同盟から離れている。また1919年冬にはミュンヘン大学に移るが、ますますカトリック教会との関係を断ちたがるようになり、奨学金を受けた生徒の義務だった協会への勉学報告書の提出も怠るようになった。敬虔な父からも心配され、迷いを捨ててひたすら神へ祈りをささげるよう求める手紙を送られている[22]

1920年にハイデルベルク大学へ移り、歴史、言語学、美術、文学を学んだ[23]。また1921年春から4か月かけて博士論文『劇作家としてのウィルヘルム・フォン・シュッツドイツ語版。ロマン派戯曲史への寄与(Wilhelm von Sch?tz als Dramatiker. Ein Beitrag zur Geschichte des Dramas der Romantischen Schule)』を執筆し、これにより1922年4月21日にハイデルベルク大学より博士号(Dr. phil.)を授与された[24]。この学位授与はゲッベルスの知識人としてのプライドを大いに満足させた[25]。なおこの論文は美学的関心が主であり、政治的傾向はほとんど見受けられないが、ゲッベルスは宣伝大臣となった後、自分が学生時代から政治に関心を持っていたかのように糊塗するために論文のタイトルを『初期ロマンチシズムの精神的、政治的傾向』に改めさせている[26]

大学時代には左翼的な思想を持っていたと見られる。フライブルク大学在学中にリヒャルト・フリスゲス(Richard Flisges)という共産主義者の復員兵と知り合った関係で彼からマルクスエンゲルスの著作、ヴィルヘルム2世とドイツ軍国主義を批判するラーテナウの著作、ロシアびいきのフリスゲスが好きなドストエフスキーの著作などを借りて読むようになり、それらから思想的影響を受けた。反戦とワイマール憲法支持を唱えるリベラル紙『ベルリナー・ターゲブラットドイツ語版』の熱心な読者にもなり、同紙に50通も投稿を行っているが、投稿が紙面に採用してもらえたことはなかった[27]

また大学在学中のゲッベルスにはまだ反ユダヤ主義的傾向は少なく、ハイデルベルク大学で教えを受けたフリードリヒ・グンドルフドイツ語版教授はユダヤ人であり、博士論文の執筆指導教員マックス・フォン・ヴァルトベルクドイツ語版男爵も片親がユダヤ人の半ユダヤ人だった[28]。また、ナチ党で地位を得るまでは半ユダヤ人のエルゼ・ヤンケ (Else Janke) という女性と恋愛関係にあった[29]。1919年に友人に宛てて送った手紙の中にも「きみも知っての通り、僕はこの行き過ぎた反ユダヤ主義者たちが嫌いではないかもしれない。確かにユダヤ人は、僕の特別な友人だとは言えないけれども、罵倒や非難、さらに迫害によってユダヤ人を始末してはいけないと思う。たとえそのやり方が許されるとしても、それは高潔ではないし、人間性に悖る」と書かれている[30]

知識人のプライドと失業と反ユダヤ主義[編集]


1922年に博士号を取得し大学を離れたが、職が見つからず、一時ライトの両親の家に戻ることとなった。その後、ドレスナー銀行ケルン支店にようやく仕事を見つけたが、不況によりわずか9か月で解雇されている。この銀行に勤務していた頃に1923年の大インフレを経験しており、ドイツ経済の惨状を目の当たりにした。ゲッベルス自身もますます貧困に苦しむこととなった。彼は反資本主義の思想を持つようになり、これが高じて反ユダヤ主義の思想を徐々に芽生えさせた。資本主義経済を牛耳る「国際金融ユダヤ人」に対して「生存のための戦い」を挑む以外に「より良い世界」への道は開けないというユダヤ陰謀論を唱え始めるようになった[29]

家族への恥ずかしさのあまり、リストラ後もしばらくケルンへ通うふりをしている。しかしやがて路頭に迷って家族に失業を打ち明けるしかなくなった[31]。失業中は少年時代の頃のように再び部屋にこもりがちになった。家族からは「貧しい家計をやりくりして勉強させてやったのに」と白眼視された[32]

彼は、新聞社のジャーナリストか放送局の文芸部員に再就職しようとしたが、いずれの会社からも採用を拒否された。この時、彼の採用を拒否した会社の中にはユダヤ系企業もあった。彼の目には知識人である自分に生活の糧を与えようとしないこの世界は「ユダヤ化されている」と映り、ユダヤ人への憎しみを強めることとなった[31]

恋人のエルゼもこの時期からゲッベルスの反ユダヤ主義の高まりを感じるようになった。ゲッベルスは彼女に「ユダヤ人がドイツの文学を支配しているので、せっかく骨を折って書き上げた傑作も突き返される」「ユダヤ人でなければ、文壇にも、劇壇にも、映画界にも、ジャーナリズムの世界にも入れないようになっている」といった愚痴をよく聞かせるようになったという[33]

ゲッベルスの日記には次のような焦燥が書かれている。「この居候生活の惨めなこと。僕にはふさわしくないこんな生活をどうしたら終わらせることができるのか。それを考えると頭が痛い。何一つ成功してくれない。いや成功することが許されないのだ。贔屓と経歴だけが物を言うこの世界で数のうちに入れてもらうためには、自分の意見とか、信念を主張する勇気とか、個性とか、性格と言われる物を真っ先に全部捨てなければならないのだから。僕はまだ何者でもない。大いなるゼロだ。」[31]

政治活動開始[編集]


ゲッベルスが政治家としての第一歩を踏み出したのは1924年のことであった。友人フリッツ・プラングに誘われて様々な社会主義者あるいは国家社会主義者の政治集会に参加し、演説などをするようになったのである[34]

こうした活動の中の1924年8月、小右翼政党ドイツ民族自由党所属のプロイセン州議会議員フリードリヒ・ヴィーガースハウスドイツ語版の知遇を得て、ヴィーガースハウスがエルバーフェルトで発行していた新聞『民族的自由 (V?lkische Freiheit)』の編集員の地位を月収100マルクの給料で手に入れた。しばしばドイツ民族自由党のための演説にも駆り出された[35]。さらに同年10月4日には同紙の編集長を任せられている[36]

しかしブルジョワ保守的なヴィーガースハウスやドイツ民族自由党と社会主義的な思想を持つゲッベルスとでは反りが合わなかった。また『民族的自由』紙は小規模すぎて、社会への影響力が皆無であったし、ゲッベルスの見るところでは支持者も頭が鈍いのが多いので、彼らに向けて演説したり、物を書いたりするのが億劫になっていった。家族への手紙の中でゲッベルスは「どさ回りの一座にいる名優のような気分だ」という愚痴をこぼしている[37]

ゲッベルスは1924年末頃から国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)のカール・カウフマンと親密になり、ナチ党で働かせてもらえないか頼み込むようになった[38]。逆にヴィーガースハウスとは疎遠になり、1925年1月に『民族的自由』編集長職から解雇された[39]。ゲッベルスは1925年1月17日号をもって『民族的自由』紙を廃刊した[40]

[6]次ページ
(1.2.国家社会主義ドイツ労働者党闘争時代)
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出典:Wikipedia
2020/02/15 23:30
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