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ユーゴスラビア社会主義連邦共和国
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3.歴史
3.4.チトーの死後と連邦の解体
1980年5月5日、チトーは没し、その死は公営放送によってユーゴスラビア全土に伝えられた。チトーの体調が次第に悪化していたことは以前より知られていたものの、その死はユーゴスラビアにとって衝撃的であった。チトーは第二次世界大戦における反ファシズム闘争の英雄とみなされており、戦後のユーゴスラビアの指導的な人物でありユーゴスラビアの象徴であった。チトーを失ったことでユーゴスラビアは一変し、多くの人々がその死を悲しんで泣いた。スプリトのサッカー競技場では、セルビア人とクロアチア人によるサッカーの試合が行われていたが、チトーの死が伝えられると皆、動きを止めて、賛歌「同志チトー、われらはあなたの道を離れないことを誓う(Dru?e tito Mi Ti Se Kunemo)」を歌った[19]

チトーの葬儀はユーゴスラビアの国を挙げて行われ、その棺はベオグラードに埋葬される前に鉄道によってユーゴスラビア各地を回り、多数の人々が国内を巡回するチトーの棺を見に集まった[20]。棺を見に訪れた人々や、葬儀の参加者の中には、共産主義者同盟に動員された者も含まれているが、大多数は動員とは無関係に、自発的にチトーの死を悲しんで訪れた人々であった[21]

チトーの死後、1980年代のユーゴスラビアでは、それぞれの構成共和国や自治州の共産主義指導者による集団指導体制がとられた[3]

チトーが死去したとき、ユーゴスラビア連邦政府の首班であったのは大統領のヴェセリン・ジュラノヴィッチ(Veselin ?uranovi?、1977年より在任)であった。ジュラノヴィッチは、外国からの債務の増大によるユーゴスラビアの国家予算の削減をめぐって、各共和国の指導者たちと対立していた。ジュラノヴィッチはチトーが国家の威信のために拒絶していた通貨の切り下げについて議論した[22]

チトー後の1980年代のユーゴスラビアは、債務の額の増大に直面していたが、ユーゴスラビアとアメリカや、アメリカ主導の「ユーゴスラビアの友邦たち」との良好な関係によって、1983年1984年にユーゴスラビアは債権放棄を受けることができた。しかし、その後も1990年代に連邦が解体されるまでの間、経済問題は続いた[23]

ユーゴスラビアは1984年サラエボで行われた1984年冬季オリンピックの開催国となった。ユーゴスラビアにとってこの大会は、多民族が結束してひとつのチームを組む、チトーの目指した「兄弟愛と統一」の理想が維持されていることを内外に示すものとなった。そして、ユーゴスラビアはソ連によるモスクワオリンピックに次いで、2国目のオリンピックを開催した共産主義国となった。その上、モスクワオリンピックでは西側諸国はボイコットしたものの、サラエボオリンピックでは西側諸国も参加している。

1980年代後半に入ると、ユーゴスラビア政府は共産主義の道から離れ、首相アンテ・マルコヴィッチ(Ante Markovi?)の主導のもと、市場経済を目指すようになる。マルコヴィッチは「ショック療法」戦略と称し、ユーゴスラビア経済の民営化を進めた。マルコヴィッチは、連邦を自由経済化、民主化へと移行させるもっとも有能な政治家として人気を得た。しかしながら、ユーゴスラビアが解体を始めた1990年代、マルコヴィッチの政策は未完のまま終わった。

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出典:Wikipedia
2020/03/14 20:31
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