マイケル・ジャクソン
▼人気記事ランキング
1.略歴
1.5.世紀のモンスター・アルバム―『スリラー』期
1982年12月、移籍後から2作目のソロ・アルバムとなる『スリラー』を発表。先行シングルとしてポール・マッカートニーとのデュエット曲『ガール・イズ・マイン』がカットされた。

再びクインシーがプロデュースを担当した本作は、現在に至るまで少なくとも6500万枚を売り上げたとされており、ギネス世界記録において「史上最も売れたアルバム」として認定されている[12]。また、収録曲9曲のうち7曲がシングルカットされ、その全ての曲が全米チャートでトップ10入りするという前人未到の快挙が成し遂げられた。その価値は批評家にも認められ、2年後の第26回グラミー賞では史上最多となる7部門を制覇する。

本作の発表では付随する革新的なミュージック・ビデオの数々が話題を呼び、それ以降のマイケルの作品には欠かせないものとなった。後に自身最大のヒット曲となった「ビリー・ジーン」のミュージック・ビデオは、「黒人音楽家の作品を放映しない」という当時の人種差別的なMTVの掟を破って放映が解禁され、ミュージック・ビデオ・ブームの先駆けとなった。エディ・ヴァン・ヘイレンを奏者に迎えたシングル「今夜はビート・イット」のミュージック・ビデオでは、ロスの本物のマフィアとの共演が実現し、集団でダンスを披露した。そして何より世界に衝撃を与えた「スリラー」のミュージック・ビデオは、14分にも及ぶ長さのホラー映画風のショート・フィルムとして制作され、その後現在に至るまでミュージック・ビデオの最高傑作として名を残している(2010年にその映像的価値が認められ、ミュージック・ビデオとしては唯一、アメリカ議会図書館に永久保存されることとなった[13])。

1983年5月、兄弟たちと「モータウン25周年記念コンサート」に出演。ジャクソンズのステージの後、ソロで『ビリー・ジーン』を歌い、後にマイケルの代名詞となるムーンウォークを初披露した[14]

同年10月、シングル『セイ・セイ・セイ』を英パーロフォンから発売。ポール・マッカトニーとのデュエットが再び実現したこの曲は、全米チャートで1位を獲得し、マイケルのキャリアでは『ビリー・ジーン』に次ぐ2番目の大ヒットとなった。この曲のミュージック・ビデオは後にマイケルが邸宅として購入することとなるサンタ・バーバラの渓谷で撮影され、姉のラトーヤも出演した。

1984年1月、ペプシのCM撮影において、事故で頭部に火傷を負う。和解金によってペプシとの関係悪化は避けられたものの、頭部の皮膚の深くにまで至る傷を残したこの事故は、後にマイケルが整形手術の繰り返しや鎮痛剤中毒に陥ってしまうきっかけとなり、その後の人生を大きく狂わせた。なお、事故で受け取った和解金はマイケルがすべて病院に寄付した。

同年7月、5枚目となるジャクソンズのアルバム『ヴィクトリー』を発表。『スリラー』のヒットも影響して本作は成功を収め、全米チャートでは最高4位を記録した。アルバムの発売に際して最後のコンサート・ツアー『ヴィクトリー・ツアー』も行われた。

同年末、ツアー終了を機にマイケルはジャクソンズを脱退した。

1985年、アフリカ飢餓救済のための慈善企画「USA・フォー・アフリカ」に参加。マイケルとライオネル・リッチーのペンによる楽曲『ウィ・アー・ザ・ワールド』は、クインシーの指揮のもと、ハリウッドを代表するスター45人が集まって録音され、最終的に全米で750万枚を売り上げた(その全額が寄付された)。

1986年9月、主演を務めたディズニーランドの3Dアトラクション『キャプテンEO』が公開。劇中では『ウィ・アー・ヒア・トゥ・チェンジ・ザ・ワールド』と『アナザー・パート・オブ・ミー』がオリジナル曲として披露された(後者は次のアルバム『BAD』に収録)。

[4]前ページ
(1.4.アイドルからアーティストへ―『オフ・ザ・ウォール』期)
[6]次ページ
(1.6.「キング・オブ・ポップ」の完成―『BAD』期)
~目次に戻る
出典:Wikipedia
2020/01/17 21:01
ソ人気記事ランキング
2020/01/21 更新
 1位日本
 2位少年誘拐ホルマリン漬け事件
 3位新潟少女監禁事件
 4位清美川梅之
 5位麒麟がくる
▲上に戻る
[9]Wikipediaトップ
[0]gooトップ
免責事項
(C)NTT Resonant