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マイン川
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7.マイン川の航行
7.1.古代から19世紀まで
すでにローマ時代には、マイン川は水上交通路として利用されていた。アウグストゥスティベリウスによってローマ帝国が拡張していった時代には、マイン川は北ドイツのリッペ川とともに2つの主要なゲルマニア侵攻ルートの一つであった。マイン川がライン川に注ぐ河口の向かい側にローマ人がマインツを築いたのもこの川筋が戦略上決定的な重みを持っていたためである。

小さな支流のニッダ川沿いにあるローマ人の入植地であるニーダ(現在はフランクフルトのヘッデルンハイム市区内)からボートの港跡が発見された。ニッダ川やマイン川を介して、ライン川右岸のcivitas taunensium(ニーダはその首邑であった)とマインツの間で商品の輸送がなされていた可能性がある。

出土品からも文献からも中世にはマイン川の航行が重要であったことがわかる。多くの入植地が、荷物の積み下ろしおよび商取引か、あるいは通行税徴収によって発展した。カール大帝は、マイン川とドナウ川の間に運河を設けるプロジェクトに固執した。しかし当時は、技術的な困難を克服することはできず、この計画は頓挫した。この時の、Fossa Carolina(カールの溝)の跡がトロイヒトリンゲン付近に見られる。

中世の船は、排水量10から20tで、1日に100kmほど航行することができた。船の操舵は竿か、曳いてもらうかしかなかった。そこで、30kmほどの間隔で宿営地が設けられた。夜間は航行が許されなかったので、船乗りは岸辺に着けなければならなかった。

12世紀からフランクフルトとマインツの間に Marktshiffという定期船が運航し始めた。14世紀からは、2隻の船で1日おきに上り下りするようになった。この船は、人や貨物あるいは郵便を運んだ。フランクフルトのファールトーア前を毎日10時に出発した。マインツまでの所要時間は約7時間から9時間ほどであった。1391年に皇帝ヴェンツェルは、Marktschiffに関する裁判権を自由都市マインツに与えた。また1474年には、Marktschiffに対する権利はマインツ選帝侯が有していた。フランクフルトはMarktschiffに対する権利を喪失したのである。

定期船であるMarktchiffに対して、自由航路はどちらかといえばあまり重要ではない。1337年以後フランクフルトには船員のツンフトは存在しなかった。少数の船員達は同時に果実商人でもあった。1602年から、春(バラの日曜日)から秋(聖ミカエルの日)までの間、ハーナウからフランクフルトへのMarktschiffが運航されることになったが、この権利はハーナウ伯が有していた。

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(6.2.流氷)
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(7.2.工業化の時代の マイン川交通)
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出典:Wikipedia
2019/12/14 06:01
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