マレーシア
▼人気記事ランキング
2.歴史
詳細は「
マレーシアの歴史
」を参照
13世紀 アラブ商人やインド商人と共にイスラム教が伝来し、仏教とヒンドゥー教の時代が終わった。
1400年
マラッカ王国
成立
1511年
ポルトガル
、
マラッカ
を占領(ポルトガル領マラッカ、
1511年
-
1641年
)
1542年
マラッカ
からポルトガルの鉄砲が日本に伝来した。(
鉄砲伝来
)
1549年 イエズス会の
フランシスコ・ザビエル
がマラッカを出発し、日本到着。
1641年
オランダ
、マラッカを占領(オランダ領マラッカ、
1641年
-
1825年
)
1777年 隣国
シャム
(現在の
タイ
)の
ソンクラー国主
に
福建省
?州府
海澄県
出身の
華僑
・
呉譲
が就任。以後、ソンクラー国を拠点としてシャム軍が
パタニ王国
、ケダ・スルタン国への侵略の動きを見せ始める。
1786年 シャムの攻撃を恐れたケダ・スルタン国は、非常時における
イギリス
による兵力援助の約束と引き換えに、
イギリス東インド会社
に
ペナン島
を賃貸した。イギリス東インド会社は、中国やインドからの移民増加政策を行った。
1791年5月1日 シャムが隣国の
パタニ王国
(現在の
タイ
深南部三県
)まで攻めて来たため、イギリスに派兵を要求したが断わられた。ここにケダ・スルタン国はフランシス・ライトに5年間騙されていた事が発覚した。クダ・スルタン国は10000人からなる大軍によるペナン島回復戦を計画したが、事前にフランシス・ライトに察知され、ペナンを取り返すどころか対岸の拠点セベラン・ペライを奪われてしまい、ペナンを正式にイギリスに明け渡した(
ペナンの歴史
)。
1795年
イギリス
、マラッカを獲得。
1805年
トーマス・ラッフルズ
がペナンに派遣され、ペナンで積んだ経験が後のシンガポール建設の参考となった。
1819年 トーマス・ラッフルズがシンガポールの地政学上の重要性に着目、
ジョホール王国
の内紛に乗じてシンガポールを獲得した。
1821年 ケダ・スルタン国はシャムに征服され、統治された。
1824年 イギリス・オランダ両国にて、マレー半島(マラッカ海峡)を中心とする地区の勢力範囲を定めた
英蘭協約
を締結(イギリスは
スマトラ島
西海岸のベンクーレン(
ブンクル
)とオランダの
マラッカ
を交換し、
ペナン
・
シンガポール
・
マラッカ
のマレー半島に英領
植民地
を得る。)
1826年 イギリスとシャムがバーニー条約を締結し、
イギリス領マラッカ海峡植民地
成立
1836年 フランシス・ライトの息子でペナン出身の
ウィリアム・ライト
が
南オーストラリア
の
アデレード
建設を開始
1840年 ジェームズ・ブレマー率いる英国極東艦隊が
海峡植民地
シンガポール
から
阿片戦争
へ出撃。
ジェームズ・ブルック
がサラワクの反乱の鎮圧に協力
1841年
サラワク王国
が
ブルネイ・スルタン国
から独立
1842年
ジェームズ・ブルック
がサラワク王国の国主となる
1855年 イギリスとシャムが通商貿易に関するボーリング条約(不平等条約)を締結。
1874年
イギリス領マラヤ
成立。錫鉱床の開発が進む。
1882年 阿片戦争で有名なランスロット・デントのデント商会のデント兄弟が
イギリス北ボルネオ会社
による北ボルネオ(
スールー王国
と
ブルネイ王国
)の統治を開始
1888年7月 イギリス北ボルネオ会社により統治される
イギリス保護国北ボルネオ
が成立
1909年 英泰条約によってクダ・スルタン国はイギリスに移譲されイギリス領マラヤになる。Unfederated Malay States
1941年
日本軍
が
コタバル
近郊に上陸(
マレー作戦
)。
太平洋戦争
の開戦。
1942年 日本軍がマラヤ全域を占領(日本占領時期のマレーシア)。
1946年
マラヤ連合
と改称。
サラワク王国
が
イギリス領サラワク
になる。
1947年
マラヤ連邦
、イギリス領植民地の集合体として結成
1948年 戦後、イギリスに返還されていた
ケダ州
がマラヤ連邦に加入。Malayan Emergency(1948年 ? 1960年)。
1957年 マラヤ連邦(初代国王トゥアンク・アブドゥル・ラーマン、初代
首相
トゥンク・アブドゥル・ラーマン
)独立。
1962年 - 1966年 インドネシアとマレーシアの対立。
1963年
シンガポール
、
イギリス保護国北ボルネオ
、
イギリス領サラワク
がマラヤ連邦と統合し、
マレーシア
が成立。
1965年 シンガポールがマレーシアから独立。
1968年 - 1989年 共産主義者の反乱。
1969年 5月10日、
1969年総選挙
実施。5月13日、マレーシア史上最悪の民族衝突であるマレー人と中国人の間の衝突
5月13日事件
が起きる。
1970年 7月
緊急条例
発布。9月、ラーマン首相辞任。第2代首相に
アブドゥル・ラザク
就任。
1974年
クアラルンプール
を連邦の
首都
に定める。
1975年 ラザク首相、急死。
フセイン・オン
、首相に昇格。第3代首相に。
1981年
マハティール
首相就任( - 2003年)
1984年
サバ州
沖合の
ラブアン
島が連邦直轄領になる。
1999年 首相官邸がクアラルンプール郊外の新行政都市
プトラジャヤ
に移転。首都機能が2010年までに移転される。
2003年
アブドゥラ・ビン・アフマッド・バダウィ
首相就任
2007年
国語
表記を、
マレー語
から
マレーシア語
(bahasa Malaysia) に定めた。
2008年
2月13日
、
アブドラ首相
は、連邦議会下院を解散すると発表した。憲法の規定により解散後60日以内に総選挙が行われる。同時に
サラワク州
を除く12州議会に解散するよう要請した。
2008年 3月の総選挙で国民戦線は3分の2議席を確保できなかった。
2009年
前年の総選挙で与党連合が歴史的敗北を喫し、アブドラ首相が責任をとって二期目の任期4年を残し辞任。
4月3日
、マレーシア与党連合・国民戦線の中核政党の統一マレー国民組織 (UMNO) の新総裁
ナジブ
が第6代首相に就任した。
2013年
2月11日
ラハダトゥ対立 (2013年)
。
2015年
7月2日
国策投資会社
1MDB
からナジブ首相の個人口座へおよそ7億ドルが振り込まれた公文書記録を
ウォール・ストリート・ジャーナル
が報じた。下旬、会社幹部が逮捕者を出す一方、内務省は経済紙に発禁命令を出した。
2015年10月11日
シンガポール金融管理局
が、スイスのファルコン・プライベート・バンクと
UBS
のシンガポール支店、地場金融大手
DBS銀行
に対し、
資金洗浄
規制に違反したとして処分を下したと発表
[7]
。UBSとDBSは、1MDBの資金流用に関与した疑いで調査されていた。UBSは130万Sドル、DBSは100万Sドルの罰金を科された。
2018年
2018年マレーシア総選挙
[4]
前ページ
(1.2.名称の由来)
[6]
次ページ
(3.政治)
~
目次に戻る
出典:Wikipedia
2019/02/01 23:31
ソ
人気記事ランキング
2019/02/20 更新
1位
→
日本
2位
↑
島田さくら
3位
↑
中華航空140便墜落事故
4位
↑
堀ちえみ
5位
↑
2月19日
▲上に戻る
[9]
Wikipediaトップ
[0]
gooトップ
■
免責事項
(C)NTT Resonant