マラッカ王国
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1.歴史
1.3.繁栄
1445年にスリ・パラメスワラ・デワ・シャーが明に朝貢の使節を派遣した際、護国の勅書、衣服、朝貢のための船の下賜を明に要請して認められているが、この要請は簒奪によって即位したスリ・パラメスワラ・デワ・シャーの不安定な立場と、タイアユタヤ朝からの外圧が強まっていたことの裏返しとも言える[23][25]1446年に即位したムザッファル・シャーの治下、王の即位直後にアユタヤの攻撃を受ける。マレー半島西岸のクランを統治していたブンダハラ(宰相)家のトゥン・ペラクの活躍によってアユタヤ侵攻を撃退、マレー半島のパハン、スマトラ中部(現在のリアウ州)にマラッカ成立以前より存在したと思われるインドラギリ、カンパールに成立した都市国家を従属させるべく軍を進めた[22]。ムザッファルの治世においては、彼の異母兄弟であり、中国人の血を引くと伝えられる副王ラジャ・プテの活躍が軍事と外交の両方で目覚ましい活躍を見せ、ラジャ・プテはパハン、カンパル、インドラギリの王と婚姻を結び、それらの地を支配したマラッカ分家の祖となった[23]

次のスルタン・マンスールの治世にマラッカ王国は繁栄期を迎える[28]。ムザッファルの遺言でラジャ・プテがマンスールの後見人を任せられるが、成人したマンスールは王と並ぶ権威を持つラジャ・プテを暗殺して統治者としての地位を確立する[25]。ラジャ・プテの殺害を不服として反乱を起こしたパハン、カンパル、インドラギリを再征服し[26]、ロカンを従属させた後[28]、これらの国からを貢納品として受け取り、また婚姻関係を築いて各国間との仲をより緊密にした[27]

第7代スルタン・アラウッディン・リアト・シャーの治世にマラッカの勢力圏にあった港市国家の再独立が始まる。マンスール・シャーの治世以前に従属させた港市国家は交易において自立性を保ちつつもマラッカの支配を受け入れていたが[28]、それらの勢力が王国の従属下から脱していったのである[33]。アラウッディンの治世は短く、彼はメッカ巡礼の準備中に病死した[34]。16世紀のポルトガル人コメンタリオスはアラウッディンの死因について、彼がパハン、インドラギリの王を強引にメッカ巡礼に同行させようとしたために毒殺された説を伝える[34]

その子マームド・シャーは幼くしてスルタンに擁立され、支配領域はマレー半島の一部に限られていたが[33]、叔父であるパハン王やブンダハラら有能な後見人に支えられ[31]、 交易港としてのマラッカは最盛期を迎える。

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(1.2.マラッカの建設)
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(1.4.ポルトガルの進出、マラッカ陥落の影響)
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出典:Wikipedia
2019/04/03 16:30
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