次のスルタン・マンスールの治世にマラッカ王国は繁栄期を迎える[28]。ムザッファルの遺言でラジャ・プテがマンスールの後見人を任せられるが、成人したマンスールは王と並ぶ権威を持つラジャ・プテを暗殺して統治者としての地位を確立する[25]。ラジャ・プテの殺害を不服として反乱を起こしたパハン、カンパル、インドラギリを再征服し[26]、ロカンを従属させた後[28]、これらの国から金を貢納品として受け取り、また婚姻関係を築いて各国間との仲をより緊密にした[27]。
第7代スルタン・アラウッディン・リアト・シャーの治世にマラッカの勢力圏にあった港市国家の再独立が始まる。マンスール・シャーの治世以前に従属させた港市国家は交易において自立性を保ちつつもマラッカの支配を受け入れていたが[28]、それらの勢力が王国の従属下から脱していったのである[33]。アラウッディンの治世は短く、彼はメッカ巡礼の準備中に病死した[34]。16世紀のポルトガル人コメンタリオスはアラウッディンの死因について、彼がパハン、インドラギリの王を強引にメッカ巡礼に同行させようとしたために毒殺された説を伝える[34]。
その子マームド・シャーは幼くしてスルタンに擁立され、支配領域はマレー半島の一部に限られていたが[33]、叔父であるパハン王やブンダハラら有能な後見人に支えられ[31]、 交易港としてのマラッカは最盛期を迎える。