ポーランド
▼人気記事ランキング
2.歴史
2.8.独立運動の時代

十一月蜂起[編集]


ポーランド立憲王国における憲法は、ロシアによって無視された。フランスベルギーの革命にポーランド軍を派遣して介入しようとしたことにポーランド全土で反対運動が起こり、1830年ロシア帝国からの独立および旧ポーランド・リトアニア共和国の復活を目指して「十一月蜂起」が起こったが翌年に鎮圧され、特に貴族であり、女性革命家でもあったエミリア・プラテルシュラフタ士族、ポーランド貴族)の国民的英雄として後世にその名を物語っている。

一月蜂起[編集]


1856年にロシア帝国がクリミア戦争に敗れて国力が弱体化すると、これを機にポーランド・リトアニア連合王国の復活を目指す人々が結集し、1863年、旧ポーランド王国領と、旧リトアニア大公国領で同時に「一月蜂起」を起こしたが、これもロシア帝国によって鎮圧された。数百人のポーランド貴族が絞首刑にされ、十数万人がシベリアイルクーツクなどに流刑となった[20]

ビスマルクによるポーランド人抑圧政策と幻のポーランド王国[編集]


プロイセン王国内の旧ポーランド王国領であるポーゼン州(旧ポズナン大公国)では、1871年からはビスマルク文化闘争により、ポーランド人に対する抑圧政策が行われた。文化闘争はドイツ人も含めプロイセン王国内の全てのカトリック教徒を対象としポーランド人は圧倒的多数がカトリック教徒であったため、特に抑圧の対象になった。カトリック教徒に対する文化闘争は1878年に頓挫したが、ビスマルクはその後もポーランド人抑圧政策を続けた。ポーランド人は抑圧に対してポーランド文化をもって徹底抵抗した。抑圧政策によってかえってポーランド人の「連帯」とカトリック信仰は確固たるものになった。ポーランド人抑圧政策はヴィルヘルム2世がビスマルクを解任した後も続けられ、ドイツ帝国第一次世界大戦で敗北した1918年に終了した。

1916年、第一次世界大戦の最中にドイツ帝国によってその衛星国としてのポーランド王国が建国された。国王が決まるまでの間としてハンス・ハルトヴィヒ・フォン・ベセラーが総督となり、3人のポーランド人が摂政を務め、6人のポーランド人政治家が歴代首相となった。2人の娘がいずれもポーランドの名門大貴族に嫁いでおり、自らもポーランドのジヴィエツに住み流暢なポーランド語を話したオーストリア=ハンガリー帝国の皇族カール・シュテファン大公(ポーランド名:カロル・ステファン・ハプスブルク)がポーランド国王の最有力候補で、カール本人も積極的であった。しかしこの案にはオーストリア皇帝カール1世が乗り気でなく、結局最後までポーランド王国の国王となる人物はついに決まらなかった(カール・シュテファンは1918年にポーランドが独立した後もポーランドに帰化してジヴィエツに住み続け、1933年に当地で死去した。子孫はポーランド人として今もガリツィア地方に住んでいる[21]

[4]前ページ
(2.7.束の間の再興)
[6]次ページ
(2.9.独立と第二共和国)
~目次に戻る
出典:Wikipedia
2019/06/08 06:00
ソ人気記事ランキング
2019/06/27 更新
 1位日本
 2位正木裕美
 3位竹達彩奈
 4位彩希エリナ
 5位6月26日
▲上に戻る
[9]Wikipediaトップ
[0]gooトップ
免責事項
(C)NTT Resonant