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チェイス・アトリー
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1.経歴
1.2.プロ入りとフィリーズ時代
2000年MLBドラフト1巡目(全体15位)でフィラデルフィア・フィリーズから指名を受けると、契約を締結し念願のプロ入りを果たす。同年に傘下のA-級バタビア・マックドッグス英語版でプロデビューし、40試合に出場して打率.307・出塁率.383という成績を残した。

2001年にはA+級クリアウォーター・フィリーズ英語版に昇格。一時は外角の速球がなかなか打てずに苦しんだが[8]、最終的には16本塁打(チームトップタイ)・120安打(同2位)を記録し、マイナーリーグのオールスター "フューチャーズゲーム" アメリカ合衆国選抜の一員に選ばれている。

2002年はAA級レディング・フィリーズを飛び越してAAA級スクラントン・ウィルクスバリ・レッドバロンズに昇格。そこではスコット・ローレンの後釜としての期待から、これまでの二塁手から三塁手へとコンバートされ1シーズンを過ごす[9]。しかし慣れないポジションなだけに動きは不自然でぎこちなく[10]、28失策守備率.918と不安定さを露呈する。結局、ローレンはこの年の夏にセントルイス・カージナルストレードされるが、アトリーは翌2003年スプリングトレーニングで二塁手へ戻される[11]

2003年のシーズン開幕をメジャーで迎えたアトリーは、4月4日ピッツバーグ・パイレーツ戦に代打として初出場。ジェフ・スーパンの前に空振り三振に倒れる[12]。初の先発は同月24日のコロラド・ロッキーズ戦で、「8番・二塁手」として出場したアトリーは、3回裏にアーロン・クックからメジャー初本塁打となる満塁本塁打を放っている[13]。この年はメジャー定着とはならなかったが、AAA級スクラントン・ウィルクスバリで113試合に出場して打率.323・OPS.907の好成績を残し、同級のオールスターゲームに選出された。

2004年は開幕をAAA級スクラントン・ウィルクスバリで迎え、フィリーズの正二塁手プラシド・ポランコの故障に伴い5月上旬にメジャーへ昇格、その後6月中旬にまたもマイナーへ戻されるも、同月下旬にメジャー再昇格を果たす[14]。そこからはシーズン最後までメジャーに定着し94試合に出場、打率.266・13本塁打・57打点を記録した。

2005年はシーズン開幕から、相手の先発投手が右腕だったときの先発二塁手として起用される[5]。そこで実績を残すとチームは6月、救援投手陣強化のためデトロイト・タイガースからウーゲット・ウービナをトレードで獲得し、見返りとしてアトリーと併用していたポランコを放出。これにより、アトリーが正二塁手となった。当初は主に5番から7番を担っていたアトリーだが、7月中旬ごろからは打線の中軸として3番打者を任されることも多くなる。最終的にこの年は147試合に出場し、打率.291・28本塁打・105打点という成績を収める。28本塁打のうち26本は二塁手として出場したときに放ったもので、これは球団タイ記録である[15]

2006年開幕前の3月に開催された第1回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)アメリカ合衆国代表に選出される[16]。同大会では4試合に出場し、打率.385を記録した。

レギュラーシーズンでは、6月23日から8月3日にかけてメジャー史上10位タイとなる35試合連続安打を達成し注目を集める[17]。この間、7月には全試合で安打を放ち月間MVPを受賞、オールスターにも初めて選出された。シーズン通算では3割・30本塁打・100打点のほか、200安打やリーグ最多得点を記録するなど軒並み成績を伸ばし、シーズン終了後にシルバースラッガー賞を初受賞。チームを代表するスター選手となった[3]。また、日米野球にもチームメイトのライアン・ハワードらとともに参加している。

2007年1月21日にフィリーズと総額8,500万ドルの7年契約を結んだ。GMパット・ギリックは「我々は長期契約を好んでいるわけではないけど、チェイスの場合は例外だ。彼のような選手がこのチームにいるのはラッキーだよ」とアトリーを高く評価した[18]。この年は開幕から前年を上回るペースで打っていたが、7月26日ワシントン・ナショナルズ戦でジョン・ラナンから死球を受け右手を骨折[19]、1か月間の欠場に追い込まれる。それでも復帰後はすぐにレギュラーとして出場し、最終的には打率.332(リーグ3位)・OPS.976(同7位)・103打点の好成績を残した。故障離脱がなければ、この年のリーグMVPはチームメイトのジミー・ロリンズではなくアトリーが受賞した可能性もあるほどの活躍で[20]、チームの14年ぶり地区優勝に貢献。しかしポストシーズンでは、大学時代の同僚アトキンスが在籍するコロラド・ロッキーズ地区シリーズで敗れた。

2008年4月17日から4月21日にかけて5試合連続本塁打を放ち同月の月間MVPを受賞する上々の滑り出し。前半戦94試合で25本塁打・69打点・OPS.955を記録し、オールスターには、ファン投票でナ・リーグ最多の3,889,602票を集めて選出される[21]。後半戦は65試合で8本塁打・35打点・OPS.855と調子を落としたが、前年を上回る数の死球を浴びても怪我なく1年を乗り切った。チームは2年連続地区優勝。ポストシーズンでフィリーズは、1勝もできずに敗退した前年と異なり、ミルウォーキー・ブルワーズとの地区シリーズを3勝1敗、ドジャースとのリーグ優勝決定戦を4勝1敗、タンパベイ・レイズとのワールドシリーズを4勝1敗と快勝し、28年ぶりにワールドシリーズ優勝を果たした。アトリーはポストシーズンを通して打率.220と低迷したが、全試合で出塁したほか、ワールドシリーズでは2本塁打を放つなど一定の役割を果たした。初のワールドシリーズ優勝を経験したアトリーはシーズン終了後、5月中旬以降ずっと臀部の痛みを我慢しながらプレーしていたことを明かし、11月下旬に手術を受けた[22]

2009年のシーズン開幕に間に合わない可能性もあったが[23]4月5日の開幕戦で先発出場して復帰。この年も5年連続となるOPS.900超えのほか、自己最高の23盗塁を記録するなど元気な姿を見せた。9月8日の試合では2年連続の30号本塁打を放ち、ハワードやジェイソン・ワースラウル・イバニェスとともに史上12組目の "30発カルテット" を形成している[24]。フィリーズはリーグ2連覇を達成し、ニューヨーク・ヤンキースとのワールドシリーズに進出。そこでアトリーは、初戦でCC・サバシアに2本塁打を浴びせるなど6試合で計5本塁打を放ち、レジー・ジャクソン1977年)が保持するシリーズ最多本塁打記録に並ぶ強打を発揮[25]。しかしフィリーズは2勝4敗で敗れ2年連続でのワールドシリーズ優勝を逃した。

2010年6月28日シンシナティ・レッズ戦で二塁ベースへ滑り込んだ際に右手親指を痛め、翌日に故障者リスト入り[26]。8月中旬まで1か月半欠場し、この間に開催されたオールスターでもファン投票選出ながら出場を辞退した。それでも9月1日からシーズン最終戦までは29試合で打率.306・OPS.911と活躍し、チームの4年連続地区優勝を支えた。

2011年3月30日に右膝の故障で15日間の故障者リスト入りし[27]5月22日に復帰[28]。故障の影響もあり、前年まで5年連続で選出されてきたオールスターにも選ばれなかった。この年は103試合に出場し、打率.259・11本塁打・44打点・14盗塁だった。

2012年4月3日に左膝の故障で15日間の故障者リスト入りし[29]6月27日に復帰[30]。この年は故障の影響で88試合の出場にとどまり(100試合以下の出場は2004年以来)、打率.256・11本塁打・45打点・11盗塁だった。

2013年は3年ぶりに開幕ロースター入りしたが、5月23日に15日間の故障者リスト入りし[31]6月21日に復帰した[32]8月8日にはフィリーズと総額2700万ドルの2年契約に合意した[33][34]。7年契約最終年のこの年は131試合に出場し、打率.284・18本塁打・69打点・8盗塁だった。

2014年は前半戦で91試合に出場し、打率.293・8本塁打・46打点と活躍。7月に4年ぶり6回目となるオールスターにファン投票で選出された。しかし後半戦は打率.235と調子を落とし、シーズンops.746はレギュラー定着後最低の数字となった。

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出典:Wikipedia
2020/03/21 00:31
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