タタール
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5.東ヨーロッパのタタール
ヨーロッパキリスト教世界の中でももっとも東に位置し、恒常的にテュルク系の遊牧民と接触していたルーシ(現在のロシア・ウクライナ[12]1223年にモンゴル帝国の最初の襲撃を受け、1237年にはバトゥ率いる征西軍の侵攻を受けて、ノヴゴロド公国以外は全てモンゴルの支配下に入った。ルーシの人々は、おそらく周囲にいたポロヴェツなどのテュルク系遊牧民が東方のモンゴル系遊牧民たちをタタルと呼んでいたのにならって、彼ら東からやってきた遊牧民たちをタタールと呼んだ。

バトゥの征西で大被害を受けたルーシは、続けてバトゥがヴォルガ川下流に留まって建国したキプチャク・ハン国(ジョチ・ウルス)の支配下に入り、モンゴルへの服従と貢納を強制された。モスクワ大公国が1480年に貢納を廃止し、他地域も独立するまで約200年前後にわたって続くことになる、このモンゴル=タタールによる支配のことをロシア史では「タタールの軛(くびき)」と呼ぶ。

キプチャク・ハン国のモンゴル人たちはやがて言語的にはテュルク語化、宗教的にはイスラム教化してゆく。15世紀にはキプチャク・ハン国は再編と解体が進んでクリミア半島クリミア・ハン国、ヴォルガ川中流域にカザン・ハン国、西シベリアシビル・ハン国などが生まれるが、これらの地域ではかつてのモンゴル系支配者と土着のテュルク系などの様々な人々が混交し、現在クリミア・タタール、ヴォルガ・タタール、シベリア・タタールと呼ばれるような民族が形成されていった。タタールの中には、ロシアやルーマニアに移住して、キリスト教を受け入れて現地に同化する者も多く現われており、ユスポフ家カンテミール家など有力な貴族となった家もある。

ロシアは、16世紀頃までに「タタールの軛」を脱するが、その後もクリミアやヴォルガ、シベリアなどに広く散らばるテュルク=モンゴル系の人々をタタールと呼んだ[6]ロシア帝国18世紀までにこれらのタタールはほとんど全てを支配下に置く。

ロシア治下のタタールのうち、ヴォルガ川中流域のカザン周辺に住むヴォルガ・タタール(カザン・タタールともいう)が経済的・文化的に成長し、ロシア領内のムスリム(イスラム教徒)中で最大の共同体へと発展していった。ロシア・ソビエト連邦ではさまざまな民族に分かれたタタールたちをまとめてタタール民族として扱っていたが、それらのうちでタタールの自治共和国を持つことができたのはヴォルガ・タタール人のみであった。このため、ロシア領を話題とする多くの文脈で、単にタタール人といったときも、狭義にはヴォルガ・タタール人を指していることが多い。

13世紀から17世紀において、多様なタタール族がポーランド・リトアニア共和国に移住や難民とし居住した。ポーランド王リトアニア大公は、高いスキルの戦士として知られていたタタール人を好んだからである。13世紀?14世紀の間、リプカ・タタール人 が移住し、15世紀から16世紀にはクリミア・タタール人ノガイ族などが移住し、ポーランド軍で高い評価を得ていた。16世紀から17世紀に、ヴォルガ・タタール人が移住した。主にリトアニア大公国、(現、リトアニアベラルーシ)に定住した。ポーランドには、リプカ・タタール人を筆頭に、ハザールを起源とするクリミア・カライム人など多くのタタール系やテュルク系民族が定住した。

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出典:Wikipedia
2019/05/15 11:00
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