ゾロアスター教
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4.歴史
4.6.パールシー
イラン高原の政治勢力はインド亜大陸に度々進出しており、インドの歴史書では好戦的なパルサヴァ族(アケメネス朝のペルシア人?、前5世紀)、アーリア人の祭祀を無視しクシャトリヤから格下げされたパフラヴァ族(パルティア人?、前2・3世紀以降)、ムレーッチャ(塞外異民族)のパーラスィーカ族(サーサーン朝のペルシア人?、4世紀以降)などとして記録されている。そうした中で、インドにもイラン系アーリア人の宗教を信じる集団がいくつか確認されている。サーサーン朝滅亡までに以下の集団がインドにおいて存在していた[17]

マガ・ブラーフマガ - 前1世紀頃、イラン高原東部からインドに移住。原イラン多神教の流れを汲むミスラ崇拝者と思われる
ボージャカ - 6世紀前半-7世紀末にインド移住。原ゾロアスター教の流れを汲む。マガ・ブラーフマガと融合
ガンダーラ・ブラーフマガ - 5世紀半ば-567年に北インドを支配したエフタルの「ミヒラ教」祭司集団の残党。マガ・ブラーフマガと同一集団?
サーサーン朝滅亡を機にイランのゾロアスター教徒にはインド西海岸グジャラートへ退避する集団があった。彼らをパールシー(「ペルシア人」の意)という。Qissa-i Sanjanの伝承では、ホラーサーンのサンジャーンから、4、5隻の船に乗りグジャラート南部のサンジャーンにたどり着き、現地を支配したヒンドゥー教徒の王ジャーディ・ラーナーの保護を得て、周辺地域に定住したと言われる[52]。グジャラートのサンジャーンに5年間定住した神官団は、使者を陸路イラン高原ホラーサーンに派遣し、同地のアータシュ・バフラーム級聖火をサンジャーンに移転させたと言われている[53]

パールシーのコミュニティーは以後1000年間信仰を守り続けている。彼らはイランでは多く農業を営んでいたと言われるが、移住を契機に商工業に進出し、土地の風習を採り入れてインド化していった[41]。インド化に伴いグジャラート語を使用するようになった彼らの多くは、旧来のゾロアスター教の資料を読むことができなくなった。二元論・終末論といった教義への探求はほとんど行われなり、代わりに神官団は一般信徒にとって重要だった祭儀の継承に力を注いだ。また知的活動を支える余裕が無くなったため、祭儀に関するものと残された書籍の写本作成を除いて、文献執筆はほとんど行われなくなった[53]

パールシーはカースト制に組み込まれ、ひとつのカーストとしてパールシーのコミュニティ内で婚姻するようになった。このカーストと族内婚によってパールシーの人々は同化圧力の強いヒンドゥー教社会の中で独自性を維持することができた[53]

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(4.5.イスラム勢力の支配による衰退)
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出典:Wikipedia
2019/11/12 08:10
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