ゾロアスター教
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4.歴史
4.5.イスラム勢力の支配による衰退
アラビア半島で興ったイスラム教国家は、633年よりサーサーン朝への攻撃を繰り返した。サーサーン朝側ではアラブ人部隊や親衛隊の裏切りが起こり、最後の皇帝ヤズデギルド3世はクテシフォンから撤退した。メソポタミア平原にはアラム人やアラブ人が多く、アラブ人イスラム軍への反発は少なかった。アーリア人たちは貢納によって信仰を維持した。クテシフォン一帯を制圧したイスラム軍はイラン高原に進軍し、ニハーヴァンドの戦いでサーサーン朝を打ち破った。これによりサーサーン朝は事実上崩壊し、アラブ人たちは権力の空白地帯となったイラン高原に侵攻した[48]

アラブ人イスラム教徒による侵攻時に、旧来の支配階級だったアーリア人たちは「イスラム教への改宗」「貢納」「徹底抗戦」の選択肢を選ばされた。改宗者は少なく、多くが貢納によって信仰を維持したといわれる。アラブ人たちは宗教的に放任策で、従来の信仰は放任された。権力基盤を失ったゾロアスター教神官団はカリフ政権に接近し、非ゾロアスター系アーリア人の宗教の信者を追討するよう依頼までした。このような態度から、ゾロアスター教団はイスラム支配の中でも存続を許されたが、一方で信者の中からはイスラム教への改宗者が相次いだ。この時期にペルシア州のゾロアスター教徒は重要な伝承を記録し「パフレヴィー語文学ルネッサンス」と呼ばれる文化活動に精を出した[49]

ウマイヤ朝からアッバース朝の転換期(アッバース革命)、アーリア人の宗教の信者たちによる反乱が相次いだ。この頃、ゾロアスター教神官のベフ・アーフリードが活躍した[50]

イスラム教徒の支配下でゾロアスター教徒たちは経済的利益や身の安全のため次々と改宗していった。イスラム側は彼らを改宗させるため、ヤズデギルド3世の娘達が正統カリフアリー・イブン・アビー・ターリブの一族と結婚したという説話を流布させた。ゴムではアーリア人への虐殺・追放が行われ、代わりにアラブ人の移住が促進された。これによってこの街はシーア派の一大拠点となった。10世紀にはゾロアスター教の牙城だったペルシア州でゾロアスター教徒の血を引くイスラム教徒のガーゼルーニーが布教活動を行った。ゾロアスター教神官団は彼を暗殺・逮捕しようとしたが失敗し、最後の基盤も切り崩されていった。12世紀にはこの地の農村部にもモスクが立つようになり、ペルシアのイスラム化は不可逆的に進んだ。これに伴い、アーリア人の伝統的階級社会は解体され、民族の誇りも失われて自称が「アジャム(非アラブ)」と主体性のないものに置き換えられた。サーサーン朝の豊かな文化はイスラム文化に吸収された(イラン・イスラーム文化[51]

近代に至り、イラン社会も世俗化の流れの中でジズヤが廃止され、ようやくムスリムとは法的に対等の権利を得た。

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(4.6.パールシー)
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出典:Wikipedia
2019/11/12 08:10
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