そごう
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2.歴史
2.3.営業再開から経営の混乱へ
日本デパートメントストア協会など業界を挙げた接収解除運動もあって接収解除が実現し、1952年(昭和27年)6月1日に大阪本店の営業を再開した[1]
しかし、この間約6年にわたって本店で営業できなかったことの影響は大きく、再開店から1年後には早くも売上が伸び悩むことになった[1]
また、一時期は外部からのグリーンメーラーによる株買い占めに遭った[3]
1957年(昭和32年)5月25日には[4]、有富光門が主導して読売新聞の建設した読売会館に東京店を開店した[3]。 しかし、この東京店は有富と読売新聞社主であった正力松太郎の間で一坪当たり月額4,000円という高額の定額家賃の契約を結んでいたため、月商約3億円で約7,000坪で約2800万円の家賃は、当時業界の常識とされていた売上高の約3%から5%を大きく上回って採算が合わず、業績の足を引っ張る結果となった[3]
1958年(昭和33年)4月に関西財界の顔役で日本繊維工業社長だった坂内義雄を社長に迎え、板谷宮吉の縁戚とされる当時日本興業銀行(現:みずほ銀行)特別調査室付考査役だった水島廣雄が副社長として就任し、主取引銀行の大和銀行(現:りそな銀行)常務から同じ副社長に就任した若菜三良と共に再建に取り組むことになった[5]
ところが、1960年(昭和35年)11月26日に坂内義雄社長が急逝し、当時慣例化していた当社の大株主で大口債権者である大和銀行と野村証券山一證券、板谷宮吉、住友正雄で構成される「5者会」に諮ることなく、同年12月23日の取締会において大和銀行の意向で同行出身の若菜三良が副社長から社長に就任したため、5者会を構成する他者が反発して経営権を巡って抗争が生じることになった[6]。この経営権を巡る争いは大和銀行が公正取引委員会に提訴されるという事態に発展し、1961年(昭和36年)10月26日にアサヒビール社長山本為三郎の仲介でようやく終息を見た[6]
この経営権争奪戦の解決を受けて1962年(昭和37年)1月30日に増資を決議して同年6月1日に資本金10億円へ増資し、同年4月26日に水島廣雄が副社長から社長に就任した[6]
[4]前ページ
(2.2.戦時下と戦後の売り場縮小と代替事業)
[6]次ページ
(2.4.増床や多店舗展開の推進)

1. 『株式会社そごう小史 創業百五拾年』そごう、1979年12月。
3. 江波戸哲夫 『神様の墜落 “そごうと興銀”の失われた10年』新潮社、2003年8月30日。
4. “開店奉仕品へカサの波”. 日本経済新聞(日本経済新聞社). (1957年5月25日)
5. 鈴木松夫 『戦後日本財界史 この20年を決定づけた経営者群像』実業之日本社、1965年5月10日。
6. 山森俊? 『そごう怒涛の大航海―「水島そごう」日本一への出帆』デパートニューズ社、1988年1月。

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出典:Wikipedia
2018/04/20 04:00
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2018/04/21 更新
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