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さだまさし
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2.経歴
2.2.グレープでデビュー
國學院大學法学部に進学するが大学には殆ど行かずに中退し、ペンキ屋など、数々のアルバイトをしながらの生活を送るが、肝炎を患ったことをきっかけに長崎に帰郷する。1972年、高校時代からの友人吉田正美(現・政美)が東京から長崎にいるさだを訪ね、そのままさだ家に住むこととなった。その際、吉田は仕事を無断退職して失踪状態で長崎にやって来たことから、さだは吉田を叱責して東京に帰るよう諭すつもりでいたが、彼の姿を見て思わず「おい!よく来たなあ」と言ってしまったため叱責することが出来なくなったという。以後二人は意気投合し同年11月3日、バンドグレープ」を結成、音楽活動を開始する。11月25日、NBCビデオホールで開かれた初めてのコンサートには定員300あまりの客席に250名程度の聴衆しか集まらず、さだの弟・繁理が通りすがりの人を無理にでも引き込むようなこともあったという(このやり方をさだは「キャバレー方式」と呼んだ。)。やがて音楽プロデューサー川又明博にスカウトされ、1973年10月25日に「雪の朝」でワーナー・パイオニア(現ワーナーミュージック・ジャパン)より全国デビューした。所属プロダクションはユイ音楽工房、ヤングジャパングループ[8]などを当たるが不採用となり、最終的にはザ・バードコーポレーションからの採用を受け、デビューに至った。

デビュー曲はまったくヒットせず、友人らがレコードを買い込んで知り合いに無理に買わせるといった状況であったという。1974年4月25日に第2作目のシングル「精霊流し」を発表するが、まだ無名のフォークデュオであったからか、当初の売り上げは芳しくないものだった。しかし、東海ラジオ深夜番組ミッドナイト東海』の中で、アナウンサー蟹江篤子が担当の曜日で毎週のように流し続けた。これが助力となって、放送エリアの名古屋地区のみならず全国的なヒットとなり、この年の第16回日本レコード大賞作詩賞を受賞することとなった。

1975年11月にリリースした「無縁坂」もヒット曲となった。しかし、そのころからさだは再び肝炎を患いプロデューサーに1年間の休養を打診したが、聴衆から忘れられるという理由で断られている。また「縁切寺」(アルバム曲)のヒット、「雰囲気を変えるため」に出された、「朝刊」が思うようにヒットしなかったことが重なってしまったこと、つまりグレープの音楽は暗いというイメージがついてしまい、自分たちのやりたい音楽と受け手との齟齬(そご)が生じたため、1976年春に解散した。なお、さだは解散コンサートにて解散の理由を「精霊流し、無縁坂、縁切寺ときたらあとは墓場しかない」と述べている。

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出典:Wikipedia
2020/02/26 15:30
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2020/02/26 更新
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